概要
1800年(寛政十二年)4月19日は、伊能忠敬が江戸を出発して日本地図を作るために測量を始めた日です。「地図の日」はそのことを記念した日となっていて、地図や測量への関心を高める日となっています。この日が、どのようないきさつで制定されたのかは不明です。
この日は国土の正確な測量が行われた第一歩となったので、「最初の一歩の日」とも呼ばれています。また地図の日と関連して、6月3日の「測量の日」という記念日もあります。
忠敬は「化政文化」にも登場する人物です。化政文化については以下の記事をご覧ください。

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伊能忠敬の人生
伊能家に入る
忠敬は1745年(延享二年)、九十九里(現在の千葉県山武郡九十九里町)に生まれます。幼い頃に母親を亡くし、父親とともに、父の実家に引き取られます。
17歳のときに、佐原(現在の千葉県香取市)の伊能家から婿入りの話が来ます。伊能家は商業がさかんな佐原の中でも成功した名家でした。
伊能家に入った後は、主力の酒屋を繫栄させ、村全体のために働いていたといわれています。さらに利根川の治水工事にも関わりました。このときに測量技術を習得したものと思われます。
忠敬が隠居するまでに、伊能家はかなりの財産を築いていました。
江戸へ
50歳で家督を長男に譲り、隠居して、「勘解由」という通称を用います。
忠敬は天文暦学を学ぶために江戸の深川(現在の東京都江東区)へ移住します。江戸では幕府の天文方のトップにいた高橋至時に弟子入りします。至時は忠敬よりもはるかに年下で当時31歳でした。
天文方 … 江戸幕府で暦や天体観測を司る役職です。
至時のもとで熱心に勉学に励みました。寝る間も惜しみ天文観測や測量について学びました。天文観測に関しては、自宅で観測できるように機材を揃えたほどです。その姿から至時は「推歩先生」と呼びました。ちなみに「推歩」とは、天文や暦についてあれこれと計算することです。
当時至時は「寛政歴」という暦を完成させていました。これまでの暦の誤差を修正し、西洋の最新の理論を取り入れたものでした。しかしそれでも満足することはありませんでした。
より正確な暦を求めるためには、地球の大きさや日本各地の緯度・経度を知る必要がありました。当時それらを求めるために必要だった緯度1度の距離は、不正確なものだったために使えるものではありませんでした。
地球一周を測るわけにはいかないので、緯度1度分の距離が分かれば、地球の大きさ(子午線)も測り出せるわけです。忠敬はさらに細かく1分(1度=60分)を測るために、深川の自宅と浅草の距離を歩きました。しかし、至時からは、「それでは距離が短すぎるので、正確な値を出すことはできない」といわれました。そのかわりに「正確な値にするためには、江戸から蝦夷地までの距離を測ればよい」と提案されました。
この提案こそが、その後の忠敬の人生を大きく変えることになるのです。
蝦夷地 … 江戸時代における蝦夷地とは、松前藩があった和人が住む地を除く現在の北海道、樺太島、千島列島などの地域のことです。
当時、蝦夷地沿海ではロシア帝国の動きが活発になっていました。
1792年(寛政四年)、ロシアの特使ラクスマンは根室に入港して通商を求める事件がありました。1806年(文化三年)から翌年にかけて、択捉島などの日本人居住地がロシア人に襲撃される事件がありました。
幕府としてはロシアに備えるために、国防上、蝦夷地の地理を厳密に把握しておくことが必要です。そこで忠敬は、そのことを利用して蝦夷地の正確な地図を作ることを幕府に願い出、それと同時に江戸から蝦夷地までの距離を測ることにしました。幕府の仕事もしながら子午線を求めることができるということで、まさに一石二鳥でした。
当初幕府は蝦夷地まで荷物を船で運ぼうとしましたが、船移動だと、肝心な子午線の長さを測ることができません。そこで忠敬は陸路で移動することを希望し、受け入れられます。
1800年(寛政十二年)4月14日、幕府から正式に測量の命令が下されました。忠敬には幕府から手当が出されました。
この記事にある日付は旧暦です。
初めての測量
4月19日、江戸の自宅から蝦夷地に向けて出発しました。忠敬以外にも内弟子や下男が同行しました。
出発時の忠敬は55歳でした。江戸時代の日本の平均寿命が30~40歳程度と推定されます。平均寿命ははるかに超えていましたが、生後間もなく亡くなる子も多かったので、実際には50~60歳まで生きる人もたくさんいました。それでも当時としては高齢だったといえます。
忠敬は、奥州街道を北上しながら測量をし、5月10日に津軽半島の最北端に到達しました。そして船で箱館(現在の函館)へ渡りました。
箱館からはいよいよ本格的な測量が始まりました。一行は東の方面に向かい、海岸沿いを測量しながら進みました。しかし当時の蝦夷地はまだまだ開拓が進んでおらず、歩くことすら困難な所もありました。測量手段としては、主に歩測によって行われました。測量以外には天体観測も行われました。
歩測 … 歩いた歩数をもとに距離を計算する方法です。忠敬の歩幅(1歩分)は69cmと推定されています。
一行は、クスリ【釧路】を経て8月7日にニシベツ【西別】に到達しました。ニシベツからは折り返して、往路とほぼ同じ道を引き返します。その後、蝦夷地を離れて東北地方を南下して、10月21日に千住に到着しました。
第一次測量にかかった日数は180日でした。
江戸に戻った後、測量した結果に基づいて地図を製作します。約20日間の日数で完成させます。12月21日に幕府・下勘定所に提出します。
今回の測量の旅に関しては、幕府から手当をもらっていたものの、それでは足りずに自腹で支払った分も相当ありました。そのために全体として大赤字となりました。しかし回を重ねるにつれ、待遇は次第に改善されていくことになります。
今回の測量によって、子午線1度の距離については「27里余(約106km)」としました。実際の子午線は約111kmなので、この時点である程度正確な値が出ていましたが、まだまだ正確とはいえませんでした。
測量を続けることになる
蝦夷地の地図(測量した所)は高い評価を得て、幕府にもそのことが伝わります。これを受けて早速次の測量(第二次測量)が計画されます。第二次測量以降については、以下にまとめました。
第二次測量
- 日 程 … 1801年(享和元年)4月2日 ~ 12月7日
- 測量日数 … 242日間
- 方 面 … 伊豆半島・房総半島・東日本太平洋沿岸
歩測にかわり、麻の縄を使って距離を求めるようになりました。しかし縄は伸縮してしまうという欠点がありました。
第三次測量
- 日 程 … 1802年(享和二年)6月11日 ~ 10月23日
- 測量日数 … 132日間
- 方 面 … 東北日本海沿岸
鉄鎖を使って距離を求めるようになり、より正確に測れるようになりました。
第三次の測量では子午線1度の距離を「28.2里(約111km)」と測定しました。この値は現在と比べてもほぼ正確な値です。
第四次測量
- 日 程 … 1803年(享和三年)2月25日 ~ 10月7日
- 測量日数 … 219日間
- 方 面 … 東海・北陸・佐渡島
糸魚川で、地元の人々に手配を依頼したところ、役人たちが大きな川のために船を出すのは危険だと断りました。実際、川を確認したところ、それほど危険でもなかったので、虚偽だととらえたのか、役人たちを叱責しました。逆にこのことで役人たちは、勘定所に忠敬の尊大な態度や言い方について訴えました(チクりました)。結果として藩主から忠敬側にその件に関する手紙が送られます。この測量が終わった後、忠敬は詳細な報告を幕府に出したものの、幕府からとがめられることはありませんでした。
1804年(文化元年)1月5日、至時は41歳で死去し、忠敬は大きなショックを受けます。至時は最後まで忠敬の師匠であり、測量事業のための良き理解者でした。至時の後継者として息子の高橋景保を登用しました。
第四次までの地図をまとめる作業を行い、「日本海半部沿海地図」としてまとめました。完成後、江戸城で将軍徳川家斉に披露されました。
第五次測量
- 日 程 … 1805年(文化二年)2月25日 ~ 1806年(文化三年)11月15日
- 測量日数 … 640日間
- 方 面 … 近畿・中国・瀬戸内海の島々
忠敬は60歳になりました。西日本の測量からは幕府直轄事業となりました。それにより測量人員も増え、測量先の各藩の受け入れ態勢も整えられたので、より測量は捗るようになりました。
この測量の最中、忠敬は感染症のようなものにかかり、別行動で治療を受けます。忠敬不在中には隊の統率が乱れ、隊規が守られなくなりました。測量後、違反した者を破門にしたり、謹慎処分にしたりしました。
第六次測量
- 日 程 … 1808年(文化五年)1月25日 ~ 1809年(文化六年)1月18日
- 測量日数 … 377日間
- 方 面 … 四国・淡路島・瀬戸内海の島々
測量に同行していた自身の息子の秀蔵は病気のために途中で離脱します。
第七次測量(九州第一次)
- 日 程 … 1809年(文化六年)8月27日 ~ 1811年(文化八年)5月9日
- 測量日数 … 632日間
- 方 面 … 九州中部・南部
第八次測量(九州第二次)
- 日 程 … 1811年(文化八年)11月25日 ~ 1814年(文化十一年)5月23日
- 測量日数 … 914日間
- 方 面 … 九州北部・対馬・種子島・屋久島
この測量の後、これまで住んでいた深川の自宅は、地図の作成作業には手狭になったので、八丁堀(現在の東京都中央区)に引越しました。
第九次測量
- 日 程 … 1815年(文化十二年)4月27日 ~ 1816年(文化十三年)4月12日
- 測量日数 … 340日間
- 方 面 … 伊豆諸島
忠敬は高齢になっていたために、今回の測量には参加しませんでした。
今回までが、実質の大規模な測量であったために、足掛け17年にわたる測量がついに完了し、蝦夷地東部・本州・四国・九州をほぼ回りました。しかし、蝦夷地の大部分に関しては測量できませんでした。
第十次測量?
- 日 程 … 1815年(文化十二年)2月3日 ~ 2月19日
- 測量日数 … 17日間
- 方 面 … 江戸
各地域の地図を繋ぎ合わせるために手間取ったために、地図の作成作業が大幅に長引きます。
忠敬は、1817年(文化十四年)頃から体調が悪くなります。翌年になると体が思うように動かせなくなり、1818年(文政元年)4月13日、弟子に見守られながら74歳で生涯を終えます。
忠敬は「至時の隣に葬って欲しい」という遺言を残します。その言葉は守られ、忠敬の墓は至時の隣に建てられました。現在でも二人の墓は東京・上野の源空寺にあります。ちなみに景保の墓も同じ場所に並んでいます。
忠敬が測量できなかった蝦夷地の大半はどうしたのですか?
間宮林蔵が、忠敬が測量できていなかった蝦夷地の測量結果を持って現れました。こうして蝦夷地は林蔵のデータに基づいて作成されることになり、日本列島全体を網羅することができました。
間宮林蔵 … 江戸時代後期に活躍した探検家です。主に蝦夷地や樺太などを調査しました。樺太がユーラシア大陸と地続きではなく、海によって隔てられていることを発見しました。樺太と大陸の間は「間宮海峡」と名付けられたことで有名です。
測量後
忠敬は亡くなりましたが、その死は隠されて、景保を中心に地図の作成が進められました。
1821年(文政四年)、「大日本沿海輿地全図」が完成しました。7月10日に、景保と忠敬の孫の忠誨江戸城に入り、地図を提出します。こうして忠敬は、多くの助けを得ながら日本地図を完成させました。
忠敬の地図は、大きく分けて214枚の「大図」(縮尺:36,000分の1)、8枚の「中図」(縮尺:216,000分の1)、3枚の「小図」(縮尺:432,000分の1)などがあります。特に詳細な大図は214枚あり、1枚あたり畳1枚分になるので、全てを並べるのは大変な広さが必要でした。
その後幕府ではこの地図は秘蔵され、一般の目に触れることはありませんでした。あまりに詳細な情報だったので、国家機密として幕府が慎重に保管したのです。しかし1828年(文政十一年)、景保が長崎出島を通して、ドイツ人の医師シーボルトに忠敬の地図(幕府に提出したものではない)を贈ります。このことが幕府の知るところとなり、シーボルトは国外追放処分となり、景保は逮捕され、翌年獄死します。これをシーボルト事件といいます。
江戸幕府が大政奉還されると、新政府に政権ともに地図も移譲されました。しかしこの地図は、1873年(明治六年)の皇居の大火によって焼失してしまいます。そのかわりに伊能家の控図が政府に献納されました。
この控図も、1923年(大正十二年)の関東大震災によって焼失してしまいます。以降忠敬の地図は失われたものとなっていましたが、2001年(平成十三年)にアメリカの議会図書館で、大図のうちの大部分が発見されました。その他についても日本国内で発見されました。もちろんこれらは原本そのものではなく、控図ですが、忠敬の地図を今でも伝える貴重な地図といえます。

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