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【歴史】織田信長・豊臣秀吉・江戸幕府とキリスト教の関係

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日本にキリスト教が入って来る

1549年(天文十七年)8月15日、イエズス会のスペイン人宣教師「フランシスコ・ザビエル」が鹿児島に上陸しました。目的はキリスト教の布教のためでした。こうして日本におけるキリスト教の歴史が始まります。

どうしてザビエルは来日したのですか?

ザビエルが海外布教の途中のマラッカ(マレーシア)で、一人の日本人青年と運命的に出会います。殺人犯として逃亡していたヤジロウ(弥次郎)は罪を告白して悔い改めて洗礼を施され、日本人初のクリスチャンになります。その彼から日本の様子を聞き、次第に日本に興味を抱きます。それがきっかけで日本での布教を決意します。

その頃、室町幕府で第13代足利義輝が支配していましたが、幕府の弱体化が進んでいて、国内は荒れていました。代わって各地で戦国大名が覇権を争っていました。このようなタイミングでキリスト教が初めて国内に入って来たのです。

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来日後、当地の守護大名・島津貴久の許しを得て、ザビエルらは伝道活動に励みます。その後1550年(天文十九年)には平戸(長崎)や山口に入って活動を続けます。周防国では守護大名・大内義隆に謁見しますが、教理に関して怒りを買ったため、さらなる地である堺(大阪)へと移動します。

全国規模での活動許可を得るために、1551年に京都に入ります。時の将軍足利義輝に謁見することを願ったものの拒否されます。当時の弱体化した幕府は、このような新しい勢力に向き合うほどの余裕が無かったのかもしれません。

山口に戻ったザビエルは、大内義隆への再謁見に成功し、今度は活動への許可を取り付けます。この度は贈り物を持参して、用意周到であったことが理由だったかもしれません。

ザビエルが滞在したのは2年間ほどでしたが、初期の布教活動に大きな足跡を残しました。

このように初期においては、九州を中心に信者(「キリシタン」といいます)が急激に広がっていきましたが、後には全国にも広がっていきました。

信長との関係

信長とキリスト教の関係を語る上で欠かせないのは宣教師の「ルイス・フロイス」という人物です。彼はザビエルの跡を継ぐように1563年(永禄六年)に来日します。

まず1569年(永禄十二年)に、フロイスは岐阜城の信長のもとを訪れます。フロイスは室町幕府に布教を認めてもらえなかったので、信長の助けを得ようとします。このときすでに将軍足利義昭を利用して、京都で大きな影響力を持っていました。このような経緯もあって、フロイスを歓迎し、京都やその周辺における布教を許可します。

信長はキリスト教に寛大な措置を取ります。城下町である安土での教会建設や活動を許可し、活動を支援しました。しかし、信長自身は信者にはなりませんでした。

一方で、仏教勢力に対して激しく攻撃しました。石山本願寺などの巨大勢力と10年以上にわたって戦い、さらには1571年に比叡山延暦寺を焼き討ちにするという大胆な行動に出ます。キリスト教を保護した理由には、仏教に対抗するためであったともいわれています。

なぜ信長がキリスト教に対して好意的な態度を取った真意は分かっていません。1573年に室町幕府が滅びてからは信者の数も増加していきます。

1582年(天正十年)に九州のキリシタン大名たちによって、天正遣欧少年使節がローマ教皇のもとに派遣されます。

同年6月、本願寺の変で信長は天下統一の夢が絶たれますが、その頃は全国で約15万人ほどの信者がいたといわれています。

秀吉との関係

信長の後、豊臣秀吉は当初は信長と同じようにキリスト教に対して寛容な態度を取りました。南蛮貿易の利益は政権としても価値があったのです。

しかし、次第にキリスト教が天下統一のために邪魔になると考えるようになります。特に1586年(天正十四年)の九州平定以降はキリスト教への態度を変えていきます。当時九州では島津家が大きな勢力を持っていましたが、1587年(天正十五年)に和睦へと至ります。こうしてキリシタンが多かった九州の大部分を征服します。そして同年7月に突如「バテレン追放令(伴天連追放令)」を出すことによって布教を禁止します。

なぜこのタイミングでの命令を出したのかな?

様々な要因があると思います。①九州が思ったよりもキリスト教が浸透していて、キリシタン大名が勢力を伸ばしていたことに危機感を持ったからです。②さらに布教の目的には、スペインやポルトガルによる本格的な日本への侵略を持っていると考えて、それを警戒したのではないかといわれています。③また大量の日本人が海外に奴隷として売られていたことを由々しきことと見たからです。

1590年(天正十八年)に、天正遣欧少年使節が帰国して秀吉に謁見します。しかしすでに禁教だった彼らには困難な状況が待ち受けていました。

このような中、キリスト教への態度を決定付ける事件が起きます。それは「サン・フェリペ号事件」です。1596年(慶長元年)にスペインの「サン・フェリペ号」が土佐(高知)に漂着します。これをきっかけとして翌年スペイン人の宣教師を含む26人が長崎で処刑(磔の刑)されることになります。この悲劇の原因として、船員の『スペインはキリスト教の布教とともに征服も行っている』という発言が、秀吉を激怒させたことといわれています。このようなこともあってキリスト教への弾圧を強めていきます。

そうは言っても、南蛮貿易は維持されます。秀吉が禁止したのはあくまでも布教活動であって、各個人の信仰に関しては禁止しなかったからです。このような曖昧な態度もあって、一部では布教活動は維持されました。こうして追放令などは形骸化していきます。

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江戸幕府との関係

1598年(慶長三年)に秀吉が病死すると、関ヶ原の戦いを経て徳川家康に政権が移ります。こうして江戸幕府が置かれます。家康も最初のうちはキリスト教に対して黙認していました。

貿易は相変わらず続けられていましたが、貿易による海外との交流には布教も付きものだったので、キリシタンは増える一方でした。1605年(慶長十年)には約75万人まで膨れ上がっていました。

こうしたことから1612年(慶長十七年)に幕領に「キリスト教禁止令」を出します。翌年には全国にも禁教を広げます。命令は徹底されます。その結果、教会の破壊や一部のキリシタン大名の追放が行われます。その後各地でキリシタンへの拷問なども行われるようになります。

この間、イギリスの平戸商館を閉鎖したり、スペイン船の来航を禁止したり、日本人の帰国・渡航を禁止したりします。このように、キリスト教への厳しい態度は貿易面にも影響を及ぼします。

1637年(寛永十四年)に「島原・天草一揆」が起きます。キリシタン大名のもとで、キリスト教が根付いていましたが、この地でもキリスト教の弾圧が広まり、それに対する反発が起きて、一揆へと繋がります。当時15歳の天草四郎時貞を大将に担ぎ出し、12万人の幕府軍に抵抗しましたが、最終的に鎮められました。

1639年(寛永十六年)にはポルトガル船の来航も禁止しました。こうしていわゆる「鎖国」が完成します。(近年では、鎖国という表現に異論も出ています)

一揆の後、領民が仏教徒であることを証明させるために「宗門改め」が行われました。また人々は必ずどこかの寺の檀家(だんか)となって、自分がキリシタンではないことを証明することが必要になりました。このような制度を「寺請制度」といいます。

宗門改めとは … 人々の信仰する宗教を調査する制度のことです。これによって作られた「宗門人別改帳」は戸籍の役割を果たしていくことになります。

檀家とは … 特定の寺に付を行って支援するかわりに、冠婚葬祭を執り行ってもらえる家のことです。

寺請制度とは … 人々をどこかの寺の檀家として登録させる制度のことです。これによってキリシタンではないことを寺が証明することになりました。

まとめ

信長、秀吉、さらには江戸幕府がキリスト教とどのように向き合ったのかをまとめてました。

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