幕府・将軍とは何か?
幕府とは、中国では、もともと戦いのときに設けられた軍の陣営のことで、陣営には「幕」が張られていました。このように幕府は、軍の中枢本部を指していたのです。
そこから発展して日本では、幕府は武家政治の仕組み全体を指す語になりました。鎌倉時代以降、幕府の最高指揮官は征夷大将軍といわれるようになりました。さらに征夷大将軍のことは将軍というようにもなりました。
古代では将軍は様々な役職に使われていました。
しかし鎌倉時代以降、将軍=征夷大将軍で幕府の最高職とみなされるようになっていきました。
日本の歴史上、どんな幕府が存在したでしょうか?
中世から近世にかけて、鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府の3つの幕府がありました。それぞれの幕府に代々将軍が就きました。
実は「幕府」という語は当時は一般的に使われていませんでした。江戸時代になってから専門書の中に、その語をわずかに見出すことができます。一般的に使われるようになったのは明治時代以降です。
この記事では、秀吉に焦点を当てます。なぜ秀吉が将軍にならかったのかについて考えます。
天下統一のチャンス 信長から秀吉へ引き継がれる
そもそもは、戦国の世の中で、実力で勝ち上がってきた織田信長が天下統一を果たすはずでした。しかし、まさ天下人になろうとした信長は、本能寺の変(1582年)によって、突如終わりを迎えます。
信長と秀吉はどんな関係だったでしょうか?
秀吉は若い頃から信長に仕えていました。そして、信長のもとで天下統一を果たすために多くの功績の残しました。こうして、信長のためにずっと献身的に仕えてきましたが、本能寺の変で事態が急変します。信長がいなくなった報告を聞いて、急いで京都に向かいます。
後に秀吉は、本能寺の変の首謀者だった明智光秀を、山崎の戦い(現在の京都府)で破ります。こうして自身こそが、信長の後継者のきっかけにしたのです。
秀吉の政治はどんなものだったのか?
秀吉が明智光秀を破った後、柴田勝家や長宗我部元親らの強敵も破ります。手強い相手だった徳川家康については、小牧・長久手の戦いで敗れたものの、何とか家康を従わせることに成功しました。
ついに秀吉は天下を統一して(1590年)、その影響力が全国に及ぶようになりました。こうして戦国時代に一区切りがついたのです。
秀吉は幕府などの組織を持つことはなく、自身に忠誠を誓った者を配置しながら。自身に権力が集中するような形で政治を行っていきました。基本的に独裁的に進めていきました。
そうした中で太閤検地・刀狩を行って、社会体制を整えていきました。さらに朝鮮出兵も行いました。海外進出については無謀な面もありましたが、多くの政治的な実績を残しました。
晩年、まだ幼かった息子秀頼が成人するまでのサポートとして「五大老」を設けました。五大老は有力な大名たちからなっていて、より重要なことは五大老の合議制で決めて、秀頼を支えるようにしたのです。さらに実際の政務も家来たちからなる「五奉行」たちに分けました。
なぜ秀吉は将軍にならなかったのか?
武士で政治の実権を握った者は、朝廷から正式に征夷大将軍に任じられて幕府を開くことがありました。つまり時の将軍がいくら実権も握っても、朝廷からの許可によって政治をしていたといえます。
秀吉は将軍ではなく、武士として初めて「関白」になりました。
秀吉は幕府は将軍になりませんでした。幕府を開かなかったというになります。
ここでは、なぜ秀吉が将軍につなかなったのか、二つの面から考えましょう。
秀吉 征夷大将軍にならずに関白を選んだ説
秀吉がなった関白は、公家の最高位になります。
関白というと、藤原家を思い出すでしょう。藤原家は関白として、一時期は権勢を奮いました。天皇の親戚ともなった藤原家は格式の高い公家でした。
武士だった秀吉は、どのように関白につけたのでしょうか?
その頃、京都の二つ公家の中での関白をめぐる争いがありました。その騒動に秀吉が入って解決することになりました。この関白をめぐる騒動というものは、もともとは秀吉が提案された右大臣の職を断ったことにあったのです。どちらかにとっても負けを認めることは格式の高い公家にとって、大きな傷になることでした。そこで両家に関白を受け入れないようにうまく説得します。その問題の解決策として、自分が関白になると申し出ました。
しかし関白は摂関家の者しかなれません。そこで秀吉は、争っていた片方の公家と養子のような関係を結んで関白になることに成功しました。こうして秀吉は1585年に関白になりました。
摂関家とは、摂政や関白を任せられる家柄で、摂関政治で活躍した藤原家から出てきた特定の家系のことで、近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家のことを指しました。いずれにしても、これらの家系は天皇家にかなり近い存在でした。
かなり強引なやり方ですが、結果的には武士だった秀吉は異例の形で関白になったのです。この経緯を見てみると、秀吉は関白にこだわっていたと考えられます。
秀吉は関白にこだわったのはなぜでしょうか?
朝廷では関白の方が征夷大将軍よりも上の地位だったからです。関白は天皇から仕事を任される信頼の厚い立場だったのです。朝廷の権威を存分に利用して、天下統一を果たそうとしたのです。
さらには鎌倉幕府や室町幕府での将軍という立場の形骸化もあったのかもしれません。鎌倉幕府では、ほとんどの期間、執権に権力を奪われていて形式的な立場に近かったですし、室町幕府では、幕府自体が弱体化していて、戦国時代においては幕府も将軍の力も全く及んでいませんでした。将軍職は魅力的に映らなかったのかもしれません。
鎌倉幕府の執権については、下の関連記事もご覧ください。

秀吉 征夷大将軍になれなかった説
秀吉は征夷大将軍のすすめを辞退したをいわれていますが、そもそも将軍になれなかったという話もあります。その理由として、秀吉はもとは百姓(農民)出身だったからといわれています。
それまでの征夷大将軍に就いた者たちは、源氏・足利氏などの清和源氏系の由緒ある家の出身者でした。しかし秀吉はそれとは縁が遠かったのです。
しかし、そのような事実があったとしても、当時の秀吉ほどの勢いがあれば、いかなる理由を付けても征夷大将軍になれたかもしれません。こう考えると、秀吉は関白ほど征夷大将軍にこだわっていなかったという見方もできます。
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