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【歴史】なぜ地租改正が行われたのか?

学習Q&A 歴史
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江戸時代の税制度とは

日本の税制で長らく基盤となっていたものは米でした。それまでは収穫高(石高)に応じて米(年貢)を納める方法でした。しかし旧来通りの米頼りでは限界に来ていたのです。

石高(こくだか)とは … 土地の生産力を米の収穫量で表わしたものです。土地の面積に「石盛(こくもり)」という係数をかけて米の生産力を計算し、それを「石」という単位で表しました。ちなみに一石は成人男性が1年間で食べる米の量の相当し、現代の重さの単位に換算すると約150kgになります。

年貢(ねんぐ)とは … 租税の一つの形です。基本的に米のことを指していたので、「年貢米」ともいいます。他の物を購入したい場合は米を換金してお金を用意していました。米以外にも畑の農作物・金銭などの年貢もありました。納税するときは個人ではなく村全体で責任を負っていました。

では、地租改正以前の税制にはどのようなデメリットがあったのでしょうか?

収穫量の変動

江戸時代は凶作が次々と起こりました。このことによって収穫量は大きく減少してしまいます。江戸時代には主に以下のような凶作が次々と起こりました。

  • 1640年~1643年 … 寛永の大飢饉(全国規模)
  • 1732年 … 享保の大飢饉(西日本中心)
  • 1782年~1788年 … 天明の大飢饉(東北地方中心)
  • 1833年~1839年 … 天保の大飢饉(全国規模)

江戸時代は地球規模で寒冷期にあたり、冷夏・大雨などの異常気象などが頻繫に起こりました。さらにたびたび起こった火山噴火も拍車をかけました。そうしたことが飢饉の原因になったと考えられます。

寒冷期 … 16世紀から19世紀半ばにかけて地球規模の小氷期(ミニ氷河期)にあたり、北半球を中心に寒冷期でした。それにより世界の気候にも影響が出ていました。例えばロンドンのテムズ川は凍ったために氷上を歩けたほどです。ちょうど日本ではこの時期が江戸時代にあたりました。

江戸時代は大きく次の2つの方法で年貢を徴収していました。

検見法けみほう作柄を調査して、年貢量を決定しました。
この調査を「検見」といいました。
検見に時間と費用がかかったり、不正が起きやすかったりしました。
定免法じょうめんほう豊作・凶作に関わらずに一定量の年貢を徴収する。
この一定量は過去数年間の年貢量の平均から算出されました。

江戸時代初期は検見法が一般的でしたが、年貢は安定しませんでした。そのため享保年間以降は定免法が行われることが多くなりました。凶作に関わらず年貢納入の安定化を図ろうとしたのです。それでも江戸時代以前の制度では盤石ではありませんでした。

米を扱うことによる負担

米は現物なので、運搬や管理が大変でした。当時は東北地方などで収穫した米は船で海上輸送されていました。船で運ぶことは年単位で長期間かかりました。しかも船が目的地に無事に辿り着けなかったり、小動物による被害があったりして、損失も多くありました。また目的地に運搬できても、その先では管理したり、品質検査があったりすることも負担となりました。

このように米を扱うことには、多くの経費がかかったのです。

改正を行った背景とは?

開国当時は、政府には財政問題が山積していました。

旧幕府や旧藩は戊辰戦争などの対応で軍備の近代化を急激に進めたために、海外に対して多額の債務を抱えていました。明治新政府はこれらの債務を引き継ぐことになったため、新政府の財政はかなり悪化していたのです。

これに加えて、華族や士族には家禄が払われることになっていました。さらに明治維新の功労者に対しては賞典禄が払われました。1876年に廃止されるまでは、これらの支払は政府にとって大きな負担でした。

こうした背景があって、政府として安定した収入を得ることは急務だったのです。

どのように行われたのか?

1871年(明治四年)に「岩倉使節団」(1871年11月~1873年9月)がアメリカやヨーロッパへ派遣されました。この間、日本国内では西郷隆盛・板垣退助などが留守を任せられて国政を担当しました。彼らで構成されたいわゆる「留守政府」によって地租改正は着手されたのです。(ただし、地租改正の事業に岩倉使節団のメンバーも関わっていました)

地租とは … 土地にかかる税金のことです。

ではどんな流れで改正が行われたでしょうか? 時系列で見てみましょう。

1871年(明治四年)… 田畑勝手作を許可する。

江戸時代は米中心の年貢制度を維持するために、田畑に商品作物などの自由な栽培をすることを禁止していましたが、各々の土地に適した農作物を生産することを許可しました。 

1872年(明治五年)… 田畑永代売買禁止令が廃止される。

土地の自由な売買が禁止されていましたが、この命令も廃止し、売買の自由を認めました。

1872年(明治五年)… 壬申地券を発行される。

田畑永代売買禁止令が廃止されたことで、売買が可能になったことで、土地の所有権を明確にする必要が生じました。これによって「壬申地券」という証明書が発行されました。

1873年(明治六年)… 地租改正法が公布される。

土地と租税制度に関する法律が公布されました。主な点は以下の通りです。
・米に基づく課税から地価に基づく課税へと変更されました。
・納税者は土地(地券)の所有者となりました
地価の3%を地租として現金で納めることになりました。

1873年(明治六年)… 改正地券が発行される。

地租改正法によって新たな地券が発行され、以前の地券を代えられました。この地券には土地の種類・面積・所有者・地価・地租などが記されました。

1874年(明治七年)… 地租改正に着手する。

当初は農民による自己申告制でしたが、公平な徴収が困難であるとの見通しから、1875年に地租改正事務局が設置されて強硬な姿勢で行うように変更しました。

1877年(明治十年)… 各地で農民一揆が起こり、地租を2.5%に引き下げ。

設定された地租により、江戸時代よりもかえって負担が重くなることが場合が多く、各地で反発が起こりました。またそれまでの共同利用が認められていた土地が国有地になることによって農民は不利益を受けました。そうしたことなどが一揆の原因となりました。これを受けて政府は地租を2.5%に引き下げました。

1881年(明治十四年)… 事業がほぼ完了する。

1880年までには、ほとんどの土地の地租改正事業が完了したことから、地租改正事務局は廃止されたことによって、一部の作業を残して事実上の地租改正は終了しました。

1886年(明治十九年)… 登記法の制定

それまでの公証制度から登記制度が導入されました。これによって、土地などに関する権利の公示のための登記制度が定められました。登記作業は裁判所が行われました。

登記とは … 財産(土地など)に関する権利・義務を社会に向けて公示するための制度です。

1889年(明治二十二年)… 土地台帳規則の制定により地券が廃止

登記法により土地台帳の整備が促進されて、土地台帳規則が制定されました。これにより地券が廃止され、土地台帳に移行していきました。

 

西郷隆盛の活躍や生涯については、以下の記事をご覧ください。

【歴史】西郷隆盛の生涯 なぜ西南戦争は起こったのか?
西郷隆盛の激動の生涯について紹介します。隆盛が西南戦争に突き進んだ背景について解説します。

 

地租はその後どうなったのか?

地租は明治~大正と日本の財政を支えることで、重要な役目を担っていました。昭和15年になると、国税として一度徴収した後、徴収地である道府県に全額還付されるようになりました。こうして地租は地方税を補助するようになりました。

戦後になると、日本国憲法が公布されます。旧憲法では地方自治に関する条文はありませんでしたが、新憲法では地方自治が保障されるようになりました。この憲法の精神に沿って、地方財政の自主性を確立するため、1947年(昭和22年)に地租は国税から地方税に移されました。

さらに1950年(昭和25年)に「シャウプ勧告」の結果、地租は廃止されて固定資産税(市町村税)に統合されました。こうして地方自治のための収入が強化されることとなりました。こうして80年間近く続いた地租の歴史は幕を閉じたのです。

シャウプ勧告とは … GHQの要請によって1949年(昭和24年)に結成された日本税制使節団が作成した報告書のことです。ちなみにシャウプとはこの使節団の団長の名前です。
この使節団がまとめた報告書によって、日本の複雑な税制の簡素化や運用上の不公平感をなくすために幾つかの勧告が行われました。その中に地方自治の財政力の弱さについての指摘があり、地方自治の独立性を保つために税制を整える必要性を説いていました。

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