なぜ、江戸時代は改革が必要だったのか?
江戸時代の後半にかけて、享保・寛政・天保の改革の3つの改革が行われました。
「享保」・「寛政」・「天保」は、全て元号から取られています。
なぜ次々と改革が行われたのか?
それは、江戸幕府が財政難になっていったからです。かつて金・銀の産出量が世界トップクラスだったのに、鉱山の枯渇により産出量が減少していきます。金・銀といった売るものが減少ということは幕府の収入も減少するということを意味していました。さらに長崎貿易では、国内で産出した金・銀が貿易代金の支払いのために、海外に大量流出してしまいました。
さらに、財政難に追い打ちをかけるように、自然災害(富士山の噴火・地震・地球規模の寒冷化による飢饉など)もたびたび起こりました。自然災害が起こるということは、それに対応するための出費も増大していきます。
以上のような原因による財政難に対応するために、江戸幕府は農業政策を重視した改革を行って、財政を立て直そうとしました。この時代は、確保した米をお金に換金するという仕組みがあったので、財政を立て直すことは、お米を確保することを意味していたのです。
そのような理由から、これらの改革は農業政策に関連した政策が多いのです。
なぜ、田沼の政治は改革に入らないのか?
江戸時代の三大改革を扱っていますが、これらの改革の間に、田沼意次(たぬまおきつぐ)の時代がありました。
田沼も様々な政策を打ち出しました。例えば、株仲間を奨励したり、長崎貿易を活発にしたりして、収入を増やそうとしました。さらに土木事業にも積極的で、干拓工事や蝦夷地の開発にも着手しました。
どうして、田沼意次の政治は改革とは呼ばないの?
田沼の政治は、享保の改革と寛政の改革の間に行われました。田沼がいた江戸時代は、米を中心とした経済でした。これから扱う三大改革は農業(米)を中心とした政策です。
一方で、田沼は、商業を活性化させて財政を立て直そうとした点が、他の改革とは異なります。当時の価値観において、お金を重要視する姿勢は卑しく受け入れにくいものでした。
現代の価値観から考えると理解しがたいかもしれませんが、これらのことから「改革」とは認められていません。
享保の改革(きょうほう)
- 1716年 ~ 1745年(享保元年~延享2年)
- 江戸幕府8代将軍 徳川吉宗
徳川吉宗は、長年にわたって時代劇のテレビドラマの主人公になるなど、徳川の歴代将軍の中でも「名君」としても知られています。
改革が行われた背景
先述の金銀の減少・海外への流出、富士山の噴火、江戸の大火事などによる幕府財政の悪化があった中で、将軍徳川吉宗自ら幕府財政の悪化を立て直すために、「質素・倹約」(ぜんたくをしないで、無駄な出費をさけること)を掲げながら農業振興を軸にした改革をすすめました。このことから吉宗は「米将軍」とも呼ばれています。
何をしたか?
| 新田開発 | 一定の年貢を取り立てて、収入を安定させるため |
| 上米の制 | 参勤交代で江戸滞在の期間を短縮する代わりに大名の米を献上させた |
| 公事方御定書 | 公正な裁判や刑を行うための基準を定めたもの |
| 目安箱の設置 | 幅広く人々の意見を取り入れるために設置された |
| 実学を奨励する | 生活に役立つ学問をすすめた |
| 洋書 | 洋書の輸入の制限を緩めた |
鎌倉時代に御家人出された御成敗式目は、武家社会で長らく使われていました。一方で、公事方御定書は、庶民も含めた多くの人々を裁くための基準となりました。
当時はキリスト教に関しては厳しく取り締まっていました。そのような教えと関係ない洋書に関しては輸入を許可するようにしました。そうすることによって、医学・天文学などの西洋の学問が流入するようになって、国内の各分野の発展に貢献していきます。
結果はどうなったか?
財政は立て直されましたが、農民の負担は増大しました。改革の内容が、貨幣経済に移りつつあった時代の流れに合わず、米価は安定せずに人々の反発を招きました。
寛政の改革(かんせい)
- 1787年 ~ 1793年(天明7年~寛政5年)
- 老中 松平定信
改革が行われた背景
天候不良や火山の噴火によって天明の飢饉が起き、社会の混乱(百姓一揆・打ちこわし)があった。また田沼の政治による影響力を一掃する必要もありました。その中で、老中松平定信は徳川吉宗に倣って改革を進めていきます。
やはり、吉宗以上に極端な「質素・倹約」を掲げました。農業生産を盛り上げるための政策を次々と実行します。
何をしたか?
| 倹約令 | 旗本・御家人に対して贅沢を禁止する |
| 農村に人々を帰す | 江戸などの都市に出ていた人々(農民)を村に帰ることを促す |
| 商品作物の制限 | 米などの栽培に集中させる |
| 飢饉対策 | 農民に米を蓄えさせた。「囲い米」ともいいます。 |
| 借金の帳消し | 旗本・御家人の生活苦を救うために、町人からの借金を帳消しにする |
| 出版物の取締り | 風紀の乱れを正すために人々が読む出版物を取り締まる |
| 儒学の制限 | 朱子学以外の儒学を禁止した |
| 人足寄場 | 軽犯罪者を更生させるための施設をつくった |
朱子学は、中国の孔子が始めた儒教を基にして発展してきた学問で、日本の権力者の都合に合わせて用いられました。君主や父親には、何があっても尽くす必要があることを教えるために利用されました。朱子学以外については、幕府運営の弊害になると考えられて、1790年に朱子学以外が禁止されました。これを「寛政異学の禁」といいます。
天明の飢饉により農村から都市部へ人口の流入がありました。人であふれたことによる江戸の治安悪化を受けて増加していた無宿者、さらには軽犯罪者・刑期を終えた者などに対して、新たに社会で仕事を得るための訓練や教育を与えました。そのために人足寄場(にんそくよせば)は設けられたのです。
結果はどうなったか?
定信は農業中心とした財政安定を目指していたため、一時的に生活は改善したかに見えましたが、風紀の取締りなどが、当時の時代の風潮には合わなくなっていました。このような厳しい改革は人々の支持を得ることが難しく、結果として失敗に終わりました。
「白河の 清きに魚も 住みかねて もとの濁りの 田沼恋ひしき」という歌があります。これは「白河の水はきれい過ぎるので、かえって魚も住みづらい。昔の濁っていた沼が恋しい。」という意味で、田沼時代を懐かしんで、定信を批判している歌です。この歌からも定信の改革への評判の悪さが伺えます。
天保の改革(てんぽう)
- 1841年 ~ 1843年(天保12年~14年)
- 老中 水野忠邦
改革が行われた背景
日本近海への外国船の出現、大規模な飢饉が起こったことによる社会の混乱、それに関連して大阪の元役人による大塩平八郎の乱など、社会が不安定になっている中で、もう一度幕府の力を取り戻すために老中水野忠邦によって改革が行われました。
前例に倣って、やはり「質素・倹約」を打ち出して、人々を締め付けようとぜいたくを禁止して、農業を振興させようとしました。
何をしたか?
| 株仲間の解散 | 物価の混乱が株仲間が原因だとして解散させた |
| 倹約令 | あらゆる階層の人々にぜいたくを禁じて、質素を求めた。 |
| 風紀を正す | 歌舞伎・落語などの取締り/出版物を統制/娯楽の禁止など |
| 農村に人々を帰す | 江戸などの都市に出ていた人々(農民)を村に帰した |
| 幕領を広げる | 江戸・大阪の大名の領地を幕領(幕府の土地)にしようとする |
| 外国への対応 | 薪水給与令(しんすいきゅうよれい)を出して、外国船に対応した。 |
都市部の土地を幕領(幕府の直轄領)としました。その目的は、幕府の収入を増やすことと、外国勢力への対応するときに幕府の力を強く示すためでした。この命令を「上知令」(あげちれい)といいます。幕府内からも反発が出るほど評判が良くありませんでした。
外国への対応として幕府は、1825年に異国船打払令を出して、強硬な態度で外国船に対応するようにしていました。しかし、1840年のアヘン戦争で、イギリスの力を見せつけられた幕府は方針を大転換して、1842年に薪水給与令を出して、外国船への燃料(薪)・食料など(水)の補給を認めるようになります。
結果はどうなったか?
急激な変化と引き締めは、多くの反発を生み、約2年で大きな失敗に終わりました。しかも当時は各藩(後の明治維新でも活躍する)も独自に力を付けてきていました。こうした勢力に対して、江戸時代末期の幕府は以前のほどの力を持っていませんでした。


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