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【歴史】4月12日 アメリカ南北戦争が始まる

学習Q&A 歴史
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概要

南北戦争とは、1861年~1865年にアメリカ合衆国本土を舞台にして、北部(「アメリカ合衆国」)と南部(「アメリカ連合国」)が戦った大規模な内戦のことです。アメリカ史上最大の内戦となりました。この戦いによってアメリカの国家としての形を固めることができました。

南北戦争は英語で「the Civil War」と表記されます。実は英語には「南北」という言葉は出てきません。「Civil War」は「内戦」という意味ですが、これに定冠詞を付けて頭文字を大文字にして、特別な意味を持たせています。アメリカ国外では「American Civil War」と表記されることもあります。

戦争が起こるまで

南北戦争に至るまでに、アメリカ国内といっても、北部と南部で状況が全く異なっていました。

南部ではプランテーションが行われ、綿花栽培などが隆盛を極め、世界市場の大半を占めるほどになっていました。このようなプランテーションでの農作業は黒人奴隷によって支えられていました。綿花などはイギリスに輸出され、莫大な利益を上げていたのです。

南部の各州にとって、これらのプランテーションを中心とした産業は経済を支える屋台骨だったので、何が何でも黒人による奴隷制を賛成・維持しようとしました。1850年には逃亡奴隷法が制定され、逃亡奴隷は逮捕され奴隷主に引き渡されることが定められました。この法は奴隷制に消極的だった北部にも影響を与え、北部の人々も奴隷制の問題が身近なものになりました。

プランテーション … 主に輸出することを目的とした作物を栽培する為に設けられた大農園のことです。綿花以外には、コーヒー、カカオ、サトウキビ、天然ゴムなどのプランテーションも、アフリカやアジアなどの世界各地にあります。

この頃、悲惨な奴隷の実態を描き出した話として有名な作品が世に出ます。ハリエット・ビーチャー・ストウ(ストウ夫人)が『アンクル・トムの小屋』という本を出版します。話の内容に感化された人々から奴隷制に反対の声を上がったり、逆に奴隷制を擁護する声も上がったりして、奴隷制度をめぐる南北対立に深刻さを増していきました。

アンクル・トムの小屋 … 1852年に新聞に発表された話で、日本でも有名です。奴隷として雇われていた初老トムは、優しい主人の下で奴隷として幸せに生きていましたが、事情があって売られてしまいます。最終的に暴力的な主人の下で苦労しますが、最初の優しい主人の家にいた息子ジョージが、買い戻すためにやって来たものの、間に合わずにトムは命を落としてしまいます。このことで、ジョージは自分の家にいた奴隷を解放することを決意します。

北部では急激な工業化が進んでおり、奴隷ではない新たな労働力を必要でした。これらの州にある工場などでは、より自由に金銭で雇うことできる人々を求めていました。また、多くの労働者を確保することが必要だったので、南部の奴隷を解放してもらえると、その分だけ北部に誘導できると考えたからです。それで、奴隷制度の反対廃止を主張します。

1854年カンザス・ネブラスカ法によって、新しい州が誕生すると、それぞれの州の住民の意思によって、奴隷州または自由州を選択できるようになりました。それまで、北緯36度30分以北に新たにできる州については奴隷制度を禁じるミズーリ協定1820年)というものがありましたが、この協定は破棄されました。この新法によって、北部でも奴隷州を誕生させることが可能になったために、奴隷州が拡大する恐れが出てきたのです。

奴隷州・自由州 … 奴隷州とは奴隷制度を採用していた州、自由州とは奴隷制度を禁止していた州のことでした。

奴隷制・主要産業を軸にして、南北の対立は深刻になっていきました。
(同じ国なのに別の国のような構造になっていた)

政治の世界では、奴隷制反対を掲げて共和党が新しく誕生し、北部州の支持を得ていました。一方既存の民主党は北部と南部で党内が割れる事態となり、政治も不安定化していました。

開戦する

1860年11月大統領選挙で、共和党のエイブラハム・リンカーンが当選しました。選挙では奴隷制が争点になっていました。どちらかというと奴隷制に反対の姿勢を取っていたリンカーンに、南部は不安を覚えます。

エイブラハム・リンカーン … イリノイ州の議員や下院議員を経て、アメリカ合衆国第16代大統領になりました。2期にわたり大統領を務めました。独学で弁護士の資格を持っています。

当初は南部優勢

これを受けて、サウスカロライナ州をはじめとして、ミシシッピ州、フロリダ州、アラバマ州、ジョージア州、ルイジアナ州、テキサス州が次々とアメリカ合衆国から脱退を宣言します。これらの州でアメリカ連合国を結成し、ジェファーソン・デイビィスが大統領に指名されました。

アメリカ合衆国の大統領 → エイブラハム・リンカーン
アメリカ連合国の大統領 → ジェファーソン・デイビィス

アメリカ連合国 … 1861年から1865年までに存在したアメリカ南部の諸州による未承認国家です。南北戦争後の1865年に、再び合衆国に併合されます。略称「CSA」ともいいます。

1861年3月にリンカーンが合衆国の大統領に就任すると、4月12日に南軍が合衆国側のサムター要塞を砲撃して開戦します。当初は南軍優勢で展開していきます。

戦争が始まると、合衆国に残っていたバージニア州、アーカンソー州、テネシー州、ノースカロライナ州も連合国に加わり、連合国が厚みを増していきました。

この時点で、上記の11州(サウスカロライナ州、ミシシッピ州、フロリダ州、アラバマ州、ジョージア州、ルイジアナ州、テキサス州、バージニア州、アーカンソー州、テネシー州、ノースカロライナ州)でアメリカ連合国を形成していました。

1861年7月の第一次ブルランの戦いでは、北軍は南軍の前に敗戦します。数の上では上回っていたはずの北軍でしたが、優秀な軍人の指揮の下、北軍を攻略したのです。

その後も各地で戦いが繰り広げられていきます。

奴隷解放によって北部が巻き返す

1862年5月、リンカーンはホームステッド法を制定します。アメリカ合衆国の人々や将来的に帰化を希望する人であれば、5年間、未開拓の土地を開墾して定住すれば、160エイカー(約64.7ha)の土地を無償で手に入れることができるというものでした。結果として、新規開拓が進んでいた西部の州から多くの支持を受けるようになりました。

ホームステッド法により、リンカーン(北部)の支持は増加する。

1862年9月、アンティタムの戦いで北軍が優勢に戦局を展開し、北軍に流れが向かいます。

1862年9月、リンカーンは奴隷解放宣言(暫定的)を出します。翌年1月1日までに南部が合衆国に復帰しなければ、その日をもって奴隷を開放することを宣言しました。しかし南部の各州に変化はなかったので、予定通り1863年1月1日奴隷解放宣言を発表します。こうして数百万人の黒人奴隷が解放されることになりました。

こうしてリンカーンは奴隷制廃止を大義名分として戦いを進めます。この戦略によって、連合国側が外国(イギリスなど)からの援助を受けにくくなりました。結果としてリンカーンは外国を味方に付けることができたのです。

奴隷解放宣言によって、南部は国際的な支援を受け入れにくくなる。

1863年7月ゲティスバーグの戦いで北軍が実質的に勝利をおさめます。最大の激戦によって戦局は北軍有利に転換していきます。

1863年11月19日、ゲティスバーグの戦場近辺でリンカーンが演説を行います。あの有名な「ゲティスバーグの演説」です。ここで「government of the people, by the people, for the people(人民の、人民による、人民のための政治)」という世界的に有名な台詞が飛び出します。

この演説はたった約2分間の短い演説でしたが、演説の終盤に、この有名な一説が登場しました。この言葉には世界中の民主主義の理想が集約され、今でもなお語り継がれています。

終戦へ

1864年に入ると、北部が完全に優勢になっていました。1865年には南部の首都であるリッチモンドが陥落し、焼き払われることによって、南部は敗北し決着を見ます。

1865年4月10日、アポトックス・コートハウスの戦いで北軍が勝利し、南軍の将軍リーは降伏します。これによって戦争行為はほぼ終了します。北軍としては、中途半端な結果に終わると、連合国が生き残ってしまいます。このことは実質南部の勝利を意味していたので、何としても屈服させる必要があったのです。

ロバート・エドワード・リー … 南軍(アメリカ連合国)の軍司令官を務め、名将として北軍を最後まで苦しめました。

この内戦によって推定で約70万人~90万人が亡くなったといわれています(実際の数は分かっていません)。死者数は当時のアメリカの人口から考えれば相当数にのぼったといえます。

南北戦争時のアメリカの人口は、北部で約2200万人、南部で約900万人(そのうち奴隷が約400万人)で、合計で約3100万人でした。

リンカーンが暗殺される

1865年4月14日リンカーンはワシントンD.C.にあるフォード劇場で観劇中に暗殺されます。暗殺犯は俳優のジョン・ウィルクス・ブースです。暗殺後、逃亡先の民家で騎兵隊によって射殺されました。

ブースはアメリカ連合国の信奉者で、政府を転覆することが犯行の目的でした。

戦争が与えた影響

南北戦争はどのような影響があったのか、以下の点を見てみましょう。

黒人問題は尾を引いた

奴隷制自体はなくなりました。しかし、1870年代以降の南部では、北軍が撤退して状況が落ち着いてくると、再び黒人に対する視線は厳しくなっていきました。こうした中で白人至上主義が高まっていきます(KKKの台頭)。

南部の各州では黒人を含む有色人種に対する隔離政策(ジム・クロウ法)が出され、日常生活や仕事などのさまざまな場面で人種差別は強まっていきます。

この問題の解決は、1950年代公民権運動まで待たなければいけませんでした。

実は日本とも関係があった

南北戦争は遠く離れた幕末の日本にも大きく影響を与えました。

1853年(嘉永六年)にペリーが来航し、1854年(嘉永七年)と1858年(安政五年)には、アメリカと貿易に関する条約などを結びます。当初は日米関係は活発でしたが、それ以降アメリカは急におとなしくなってしまいます。

それは南北戦争は1861年に勃発したからです。これによって、当然ながらアメリカは国内に総力を向ける必要があり、外国に目を向ける余裕がなくなったのです。

このときの詳しい内容については、以下の記事をご覧ください。

【歴史】黒船来航 なぜペリーは日本にやって来たのか?
1853年ペリーは日本の浦賀にやって来ます。いわゆる黒船来航です。江戸幕府がどのように対応したのかについて解説します。

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