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【歴史】黒船来航 なぜペリーは日本にやって来たのか?

学習Q&A 歴史
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ペリーがやって来た背景

ペリーがやって来るようになるまで、アメリカではどのような動きがあったのでしょうか?

当時アメリカは急速に発展していたとはいえ、国としてはまだまだ新興国でした。その頃の人口は、日本よりも少なかったのです。そのようなアメリカが、軍事力を根拠に日本に開国にせまるまでになった背景を考えます。

イギリスから独立後のアメリカ

イギリスの植民地だったアメリカは、植民地に関する扱いに関してイギリスに反発した結果、1775年にアメリカ独立戦争を起こし、1776年に独立宣言を発表します。こうして新興国アメリカは、その大きな一歩を踏み出しましたが、当時の領土は東海岸の一部だけでした。

独立後のアメリカは、西へ西へと領土を広げていきました。1848年、現在のカリフォルニア州を含む西海岸に面する地域をメキシコから割譲されたことにより、ついに西海岸まで領土が到達しました。

こうして、現在のアメリカ合衆国の形がほぼ出来上がりました。

西海岸到達後のアメリカ

西海岸まで領土が広がったということは、アメリカは太平洋側に面する国家になったということです。太平洋は広大ですが、その海の先、西方には何があるでしょうか?

その先には、日本や清(中国)のアジアがあります。アメリカは、当時のアジアとの関係から日本との結びつきを強く求めるようになりました。その理由を詳しく見てみましょう。

なぜ日本に近づこうとしたのか?

当時アメリカでは、クジラ(鯨)から鯨油(クジラから採れる油)は、灯火のための燃料・ろうそくや石けんの原料などに大変な需要がありました。このために捕鯨をしていました。
日本近海には、鯨油にできるクジラがたくさんいました。そのため、太平洋上で長期間活動する捕鯨船のために、水・食料・燃料などを補給するための拠点(港)を日本に求めたのです。

もう一つは、清(中国)との関係がありました。意外なことに、すでにアメリカ・清の貿易はさかんに行われていて、清はアメリカ最大の貿易相手国となった時期もありました。
このように交易・交流がさかんな中で、新たな太平洋航路を開拓するということは急務でした。この航路は他の航路と比べて、距離が短く効率的な航路だったのです。この航路上に島国の日本があったので、日本に貿易船の補給ための中継拠点を求めたのです。

最後に、日本に対してはどうだったでしょうか?
実はペリーが来航するまでの18世紀末以降、アメリカ船による接触は何度かありました。アメリカとしては日本との貿易へ道筋をつけたかったのです。しかし、幕府の態度を本気で変えさせることはありませんでした。このことから、日本との交渉には軍事力をちらつかせる必要性があると考えるようになりました。

以上のような理由から、来航を模索するようになりました。しかしあくまでもアメリカの基本姿勢としては、侵略目的ではなく平和的な関係を求めていたのです。

一度目のペリー来航 幕府はどのように対応したか

幕府側はオランダを通じて事前に来航する情報は得ていましたが、受け止め方は深刻ではなく、多少の防備を強化した程度でした。

そんな中、1852年11月に出航したペリー率いる艦隊は、大西洋からアフリカ大陸・東南アジアをまわって、清・琉球・小笠原諸島に立ち寄った後、ついに1853年7月浦賀(神奈川県)に来航しました。浦賀は現在の東京湾の入口にあって、江戸をすぐ臨むことができる距離でした。

※航路は大まかなものです。小笠原諸島は琉球に停泊中に立ち寄りました。

4隻の軍艦で来航したペリーは、開国のための大統領の親書を幕府側に渡しますが、幕府は返答に1年の猶予を求めたため、それを受け入れていったん退くことにします。このとき、ペリーは一年後に再来することを約束しました。

マシュ・ペリーは東インド艦隊司令長官でした。海軍では「蒸気船海軍の父」といわれています。

幕府は、この事態に対応するために、大名や下級武士にまで意見を求めようとします。このような幕府の態度は前代未聞のことでした。このことは、幕府の権威を揺るがすものとなりました。

再来するまでの時間を使って、幕府は品川(東京)に砲台のための「台場」を築きました。これをきっかけに、お台場が次々と築かれていくことになる。この台場については、翌年のペリー来航のさい、一定程度の役割を果たしました。

二度目のペリー来航 幕府はどのように対応したか

1854年2月ペリーは再び来航します。今度は最終的に合計9隻の大艦隊になりました。

横浜で日米の会談が行われ、いくらかの応酬の後、通商に関しては見送られることになりましたが、アメリカ船に難船などの緊急時のための避難港として開港を要求されました。こうして下田(現在の静岡県)と函館(当時は箱館)の2港が開港されることになりました。

下田も函館も、当初のアメリカ側の要求(浦賀と松前)と比べて、少し場所を変えて選ばれました。ただし、下田に関しては、数年後の日米修好通商条約の締結のさいに、貿易を行うためには、場所としては不向きなので閉鎖されることになります。

1854年3月日米和親条約が締結されました。これにより、約210年間続いた「鎖国」が崩れることになったのです。

日米和親条約の主な内容は以下のようなものでした。

  • 下田と函館(箱館)を順次開港して、アメリカ船に薪水などを与える。
  • 下田と函館では、アメリカ人は限定された範囲を自由に行動できる。
  • アメリカに対する最恵国待遇を認める
  • 両国が認めた場合、下田に領事を置くことが可能。

最恵国待遇とは … 日本が他国と、アメリカよりも良い条件で条約を結んだ場合、アメリカにも同じように良い条件が適用されるというもので、日本にとって不平等な内容でした。

開国後の日米関係

開国後の幕府との海外との関係を見てみると、イギリス・フランス・オランダなどのヨーロッパ勢が存在感を示すようになります。一方で、日本を開国させたアメリカはどうなってしまったのでしょうか?

日米和親条約の後、日米修好通商条約を締結に成功しますが、その後は存在感がすっかりなくなってしまいます。なぜそうなったのでしょうか?

実はその後、アメリカでは1861年から始まった内戦(南北戦争)が勃発したからです。あのリンカーンが活躍した戦争です。アメリカ国内を北部と南部に二分する戦いで、約4年間も続きます。

このような国内情勢のゆえに、しばらくの間は、日本などのアジア方面に目を向ける余裕がなくなったのです。

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