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【歴史】真珠湾攻撃はどのように起こったか?

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真珠湾攻撃とは

真珠湾攻撃とは、1941年(昭和十六年)12月8日未明(ハワイ時間の12月7日未明)、大日本帝国海軍がアメリカ合衆国のハワイ準州オアフ島にある真珠湾を攻撃した出来事です。真珠湾にはアメリカ海軍太平洋艦隊の拠点がありました。

この攻撃により、日本はアメリカやイギリスとの全面戦争へと突入していきます。

真珠湾とは … ハワイはかつて独立国でしたが、1893年にアメリカ人によってハワイ王国は滅ぼされて、1898年に併合されました。ハワイの中心都市ホノルルがあるオアフ島の真珠湾には、1880年代に海軍基地が設置されました。さらに20世紀に入って本格的な軍港になり、太平洋上における重要な海軍基地となっていました。

アメリカ海軍太平洋艦隊とは … アメリカ海軍の主要艦隊の一つで、ハワイ州オアフ島に司令部があります。1907年に創設された最初の太平洋艦隊は、1922年に合衆国艦隊に統合・廃止されます。その後1941年に再創設されて現在に至ります。再創設後の初代司令官は真珠湾攻撃で解任されました。

攻撃に至るまで

真珠湾攻撃まで日本と世界にはどのようなことがあったのでしょうか?

第一次世界大戦後の国際協調からの変化

第一次世界大戦後、国際連盟の設立などによる国際協調の流れの中で、日本も基本的に協力姿勢を見せていました。

しかし、1929年(昭和四年)の世界恐慌により国際秩序は大きく変わります。不景気を打開するために各国が対策を講じる中、資源の乏しい国を中心にファシズムが台頭してきます。ドイツなどはヒトラーが急速に支持を集めていきます。

日本も経済を立て直す中で、海外とりわけ中国(満州)に目を向けるようになりました。中国の広大な土地を手に入れることで国を発展させようと考えるようになったのです。

中国への進出

1931年(昭和六年)9月の柳条湖事件を発端とする満州事変によって、日本は満州を奪います。

この一連の出来事に対し国際連盟は調査団を派遣し(リットン調査団)、日本は宣戦布告をせずに不当に領土を奪ったとのことから、日本軍に満洲からの撤退を勧告します。この処置に対し日本は納得できないとして、1933年(昭和八年)に国連から脱退しました。これにより日本は国際的に孤立していきます。

1937年(昭和十二年)に、日本はついに中国との全面戦争(日中戦争)を始めます。戦争が長期化するにつれて、日本は物資不足に悩まされます。とりわけ石油を中心とした資源不足は深刻で、それらを確保するために東南アジアを求めるようになります。

第二次世界大戦が勃発

1939年(昭和十四年)に、ドイツのポーランド侵攻によって第二次世界大戦が勃発します。さらに日本はフランスがナチス・ドイツにパリなどを侵攻されている最中に、1940年(昭和十五年)9月に北部フランス領インドシナに武力的な進駐を開始し勢力を拡大していきます。

インドシナでの出来事はアメリカ・イギリスの反感を買うことになり、日米関係は悪化していきます。さらにこの頃、日独伊三国同盟を締結します。

フランス領インドシナとは … インドシナはインドと中国に挟まれている半島で、フランスによって名付けられました。特に半島の東側は1887年~1954年にフランスの植民地でした。現在はカンボジア・ラオス・ベトナム・中国の一部となっています。

1941年1月頃、連合艦隊司令長官山本五十六が真珠湾攻撃の作戦案を海軍に提出します。この攻撃は彼の発案だったといわれています。

これに対して、資源獲得を狙う日本は1941年(昭和十六年)7月に南部フランス領インドシナへの進駐を決行したことによって、アメリカは日本に対する石油の全面禁輸などの経済制裁に踏み切ります。さらに他国も追随して、経済制裁の包囲網が築かれていきます(ABCD包囲網)。

この進駐が開始されるまでは、戦争回避のための日米交渉が行われていましたが、アメリカ・イギリスとの対立は修復不可能なものとなっていきます。

さらにこうした厳しい制裁を打開するためには、アメリカとの本格的な戦争を避けることはできないという見方が日本の軍部に広がっていきます。同時に状況を打開するためにローズベルト大統領と近衛首相の間で日米首脳会談の開催を模索する動きも出てきます。

しかし首脳会談の開催実現のための交渉は難航します。その流れの中で行われた9月6日の第6回御前会議では、10月末を目標に戦争の準備を進めることが確認されます。この頃になると、真珠湾攻撃のための訓練も行われています。そして10月にアメリカが日米首脳会談を事実上拒否します。

攻撃直前まで

日米交渉の不調と先を見通せない状況の中で、10月16日に近衛文麿内閣は総辞職します。

その後新たに東條英機内閣が誕生します。開戦主張を主体とする東條でしたが、それでも回避のための交渉の道も考えていました。しかし新内閣が誕生したことは、前内閣のときよりも開戦の可能性が高まったことを示していました。

10月19日に海軍が真珠湾攻撃の実行を了承します。こうして連合艦隊司令長官山本五十六が提出していた作戦が受け入れられます。

10月後半から続いていましたが、11月1日の大本営政府連絡会議において、戦争を始めることの決意が固められます。しかしこの場でも開戦派と交渉派の間で激しい応酬が繰り広げられます。

11月5日の第7回御前会議によって12月1日までに日米交渉が合意しなかったら、開戦に踏み切りことを決定します。11月26日に通称「ハルノート」によってアメリカ側の最終提案(事実上の最後通告)が出されますが、すでに開戦への流れを止めることはできませんでした。

ハルノートとは … アメリカ国務長官ハルが日本に提示した文書です。内容は中国やフランス領インドシナからの全面撤退などを含めた大変厳しい内容で、日本側としては到底受け入れられないものでした。日本はこれは最後通牒とみなしますが、それでも日本の判断にかかっていたので、妥結の可能性も僅かながらありました。

12月1日の第8回御前会議によって開戦方針が最終決定されます。このことは真珠湾攻撃を決行することを意味していましたが、日本の戦力を考慮して急襲に近い形で作戦実行する必要から秘密裏に進めることになります。

12月2日に山本五十六は「ニイタカヤマノボレヒトフタマルハチ」という暗号を送ります。これは12月8日午前零時に戦闘行動(つまり真珠湾攻撃)を開始することを示唆していました。

ニイタカヤマは当時日本領だった台湾にある新高山(現在は玉山)のことを指しています。標高3,952mで富士山(3,776m)よりも高いので、当時の大日本帝国で最高峰だったのです。

攻撃前後の動き

国際法(ハーグ条約)では宣戦布告をせずに戦争を始めてはいけませんが、結果として日本は宣戦布告よりも前に攻撃を開始してしまうことになります。

奇襲攻撃の成功率を上げることを考えていた日本側は、なるべく直前に宣戦布告したいと考えていました。このタイミング自体が直前過ぎて無理のある計画でしたが、何とかこれを実行しようとしていました。

予定では攻撃30分前に最後通告がハルへ届くようにワシントンの日本大使館に指示していました。文書は電報で攻撃前日から流されていましたが、攻撃当日大使館側では週末で書記官の送別会などがあって、ワシントン側はこれを解読・清書せずにそのままにしていました。まさか最後通告に関する文書とは思わなかったのです。しかし当日になって文書の重要性に気付きますが、時すでに遅しでした。必死に解読・清書をしている内に時間が過ぎてしまい、ハルとの面会時間を遅らせてしまいます。そのためハルに文書を手渡せたときは攻撃開始後でした。

このことは、日本は通告前に攻撃したと非難する口実をアメリカ側に与えることになりました。

またアメリカ側は真珠湾という場所までも事前に特定していたのではないかという見方もありますが、これに関しては確たる事実はありません。しかしさまざまな可能性を考慮して、空母2隻を真珠湾から退避させていました。

以下の時間については基本は日本時間となっていますが、ハワイの場合はそのことが明記されています。

攻撃の全容

11月26日に、千島列島の択捉島を「赤城」を旗艦とした合計6隻の空母を中心とした艦隊が出発します。これまでにない規模の大艦隊でした。さらに空母には戦闘機120機、攻撃機144機、爆撃機135機が搭載されていました。

12月1日に日付変更線を越えた艦隊は、北太平洋からハワイ付近の海域まで到達します。あえて気象条件の悪い北方航路を選びますが、その方が発見されにくかったからです。12月8日深夜、偵察機に続いて第一次攻撃隊183機が発進します。午前3時頃、攻撃隊に向けて奇襲成功を伝える電文を送信しています。その電文こそが「トラトラトラ」という有名な暗号です。意味は「われ奇襲に成功せり」というものでした。

当日はハワイ時間で12月7日の日曜日で、普段と変わらない朝でした。(時差の関係で、日本時間では8日の未明ですが、ハワイ時間では7日の朝になります)

午前3時25分に第一次攻撃隊が最初の攻撃を陸軍飛行場に行います。さらにその数分後、今度は雷撃隊が湾に停泊するアメリカ艦艇への攻撃を開始します。この攻撃は超低高度で行うという高度な技術の求められるものでした。大部分の攻撃が成功しましたが、9機が帰還しませんでした。

今度は午前2時45分に第二次攻撃隊167機が発進します。攻撃開始は午前4時30分頃です。これは主にまだ攻撃しきれていないものが目標となりました。ある程度時間が経過していたので、最初の攻撃と比べてアメリカ側からの反撃もあって、20機が帰還しませんでした。

これらの攻撃の他に、5隻の2人乗りからなる特殊潜航艇による特別攻撃もありました。湾内でアメリカ艦隊に近づいて攻撃するというものでした。いずれも未帰還となったために戦果は明らかではありませんが、数隻の戦艦を撃沈した可能性という調査結果があります。

これらの攻撃により、当時湾にはアメリカ太平洋艦隊の戦艦が8隻などを含めて85隻が停泊していましたが、日本側は戦艦4隻を撃沈、さらに188機の航空機を破壊しました。また死者は民間人を含めて2300名を超えました。

さらに3度目の攻撃が予定されていましたが、これ以上の損失を避けることは得策ではないと判断して行いませんでした。しかし一連の攻撃は艦船を中心に行われ、施設などの損害は少なくかったために、アメリカの実力があれば短期間で回復できるものだったともいわれています。

アメリカ側の反応

日本がどこかに何らかの攻撃をして来ることは察知していましたが、真珠湾までは特定できていなかったものと思われます。このためある程度の攻撃を覚悟していたものの、ここまで大損害を被ることも想定外と思われます。

この攻撃によってローズベルト大統領は日本と開戦します。さらに11日には日本の同盟国であるドイツ・イタリアにも続いて宣戦布告することによって、アメリカも全面戦争に参戦していきます。

ローズベルト大統領は、日本の奇襲攻撃を卑怯なものと非難し、攻撃直後から「Remember pearl harbor !」つまり「パールハーバーを忘れるな!」というスローガンを用いながら、日本への敵対心を煽ることによって国民の戦争意欲を高めていきます。

それまでのアメリカは、外交においては他国に干渉しない孤立主義を基本方針としていましたが、今回の参戦によって孤立主義を放棄し、連合国側の中心国となっていきます。このような立ち位置の変化は戦後秩序のアメリカの地位に大きな影響を与えます。

孤立主義 … アメリカは伝統的にヨーロッパや外国に干渉しないことや干渉されないことを外交方針の軸としていました。当初は国際連盟へ加入しなかったこともこの政策の表れです。「モンロー主義」とも呼ばれています

年が明けると日系人に対する強制収容が始まります。またハワイには多くの日系人(ハワイ総人口の40%近く)が住んでいましたが、多くの日系人がアメリカに対する忠誠を示したこともあって、一部の日系人を除いてアメリカ本土ほどの収容は行われませんでした。

日本側の反応

この攻撃によって8日午前7時に開戦のニュースがラジオ放送で行われました。内容は以下のものでしたが、このときは真珠湾攻撃については直接触れられていませんでした。

臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部、十二月八日午前六時発表。帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。

その後の続報の中で真珠湾攻撃における戦果がラジオ放送によって臨時ニュースとして流されます。人々は街頭ラジオなどに耳を傾けました。

これらの攻撃の成功によって日本国民は勝利の祝福に沸きますが、人々はこれから将来に対する期待と不安が入り混じっていました。

攻撃後

真珠湾攻撃の同日、日本軍はマレー半島にも上陸し、12月10日は海軍がマレー沖でイギリス海軍を撃破し、陸軍はグアム上陸を行います。さらに翌年(1942年)の春までの数ヶ月間に、香港、マニラ、シンガポールを次々と占領し、東南アジアの大部分を勢力下に収めます。このように日本の快進撃が続きました。

しかし、その年の6月のミッドウェー海戦での大敗北により、日本側は制空権と制海権を失うことになって戦争の主導権はアメリカ側に渡り、戦況は徐々に悪化していくことになります。

昭和20年の終戦への経緯については、以下の記事をご覧ください。

【歴史】戦後80年 なぜ8月15日は終戦の日・終戦記念日になったのか?
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