各大会における日本選手団のメダル数
日本が参加した全大会のメダル獲得数です。
| 回 | 年 | 国名 | 大会 | 金 | 銀 | 銅 | 合計 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 1924(大正13) | フランス | シャモニー・モンブラン | ー | ー | ー | ー |
| 2 | 1928(昭和03) | スイス | サン・モリッツ | 0 | 0 | 0 | 0 |
| 3 | 1932(昭和07) | アメリカ合衆国 | レークプラシッド | 0 | 0 | 0 | 0 |
| 4 | 1936(昭和11) | ドイツ | ガルミッシュ・パルテンキルヘン | 0 | 0 | 0 | 0 |
| 5 | 1948(昭和23) | スイス | サン・モリッツ | ー | ー | ー | ー |
| 6 | 1952(昭和27) | ノルウェー | オスロ | 0 | 0 | 0 | 0 |
| 7 | 1956(昭和31) | イタリア | コルチナ・ダンペッツオ | 0 | 1 | 0 | 1 |
| 8 | 1960(昭和35) | アメリカ合衆国 | スコーバレー | 0 | 0 | 0 | 0 |
| 9 | 1964(昭和39) | オーストリア | インスブルック | 0 | 0 | 0 | 0 |
| 10 | 1968(昭和43) | フランス | グルノーブル | 0 | 0 | 0 | 0 |
| 11 | 1972(昭和47) | 日本 | 札幌 | 1 | 1 | 1 | 3 |
| 12 | 1976(昭和51) | オーストリア | インスブルック | 0 | 0 | 0 | 0 |
| 13 | 1980(昭和55) | アメリカ合衆国 | レークプラシッド | 0 | 1 | 0 | 1 |
| 14 | 1984(昭和59) | ユーゴスラビア | サラエボ | 0 | 1 | 0 | 1 |
| 15 | 1988(昭和63) | カナダ | カルガリー | 0 | 0 | 1 | 1 |
| 16 | 1992(平成04) | フランス | アルベールビル | 1 | 2 | 4 | 7 |
| 17 | 1994(平成06) | ノルウェー | リレハンメル | 1 | 2 | 2 | 5 |
| 18 | 1998(平成10) | 日本 | 長野 | 5 | 1 | 4 | 10 |
| 19 | 2002(平成14) | アメリカ合衆国 | ソルトレークシティー | 0 | 1 | 1 | 2 |
| 20 | 2006(平成18) | イタリア | トリノ | 1 | 0 | 0 | 1 |
| 21 | 2010(平成22) | カナダ | バンクーバー | 0 | 3 | 2 | 5 |
| 22 | 2014(平成26) | ロシア | ソチ | 1 | 4 | 3 | 8 |
| 23 | 2018(平成30) | 韓国 | 平昌 | 4 | 5 | 4 | 13 |
| 24 | 2022(令和04) | 中国 | 北京 | 3 | 7 | 8 | 18 |
| 25 | 2026(令和08) | イタリア | ミラノ・コルティナ |
冬季オリンピックの開催地に関する雑学
プロパガンダに利用された大会
1936年のドイツのガルミッシュ・パルテンキルヘン大会は、ヒトラーが政権を掌握していた中での開催となりました。ヒトラーはオリンピックを国内には愛国心を高めるため、国外には近代国家としての威厳のある姿を世界に見せつけるための格好の機会ととらえたのです。
ヒトラー率いるナチスといえば、ユダヤ人に対する人種差別政策がありますが、このような国でオリンピックを開催することに対して疑問の声が出ていました。特にアメリカでは参加に関する議論も噴出し、他の国でもボイコットの動きが出てきました。しかし結局は多くの国が参加することになりました。
何としても成功させたいナチスは、反ユダヤ的なものを覆い隠すためにあらゆる手を打ちます。大会中は、大会に関連した場所から反ユダヤをうかがわせるものを撤去したり、反ユダヤに関する活動も制限しました。このように平和な国家を演出することに躍起になりました。
大会は成功しましたが、実体は全く違いました。この頃すでに強制収容所に多くのユダヤ人が送り込まれていたのです。結果として、IOCはナチスに完全に利用される形になってしまいました。
幻の札幌オリンピック
1940年と1944年の大会は、第二次世界大戦などのために中止となりました。特に1940年は札幌での開催が予定されていました。
札幌とは別に1940年の夏季大会は東京で決定していましたが、当時は夏季大会の開催国に冬季大会の開催の優先権がありました。このために札幌は1936年に候補地として名乗りを上げたのです。
紆余曲折を経ながら1938年3月に札幌オリンピックが決定しました。しかし1937年に開戦していた日中戦争の激化に伴い、決定から数か月後の1938年7月に夏季東京大会とともに冬季札幌大会も開催地返上となりました。
札幌返上に伴い、IOCはスイスのサンモリッツやドイツのガルミッシュ・パルテンキルヒェンを指名しましたが、1939年に第二次世界大戦が開戦したことにより、これらの地でも開催が不可能と判断され、大会自体が中止となりました。よって大会番号も付きませんでした。
日本での冬季オリンピックは、札幌オリンピックが実現するまで、32年を待たなければいけませんでした。
参加が認められなかった大会
第二次世界大戦後初のオリンピックとなった1948年の大会。開催地は大戦の中立国であったスイスで行われることになりました。しかしこの大会については、大戦の敗戦国である日本とドイツに関しては参加資格が剝奪されていたために、参加が認められませんでした。
永世中立国 … スイスは1815年のウィーン会議において、永世中立国となることが承認されました。
開催地変更による混乱
上の表を見てみると、短い期間で2度にわたって同じ都市(オーストリア・インスブルック)で冬季オリンピックが開催されていることに気付きます。なぜそのようなことになったのでしょうか?
1976年大会は、当初アメリカのデンバーでの開催が1970年に決定していました。しかし住民による自然環境に関する懸念から、それらに対応するための経費が膨らんでいきます。それに関連して反対運動が活発化していきます。最終的に住民投票によって大会への予算を出すことが否決され開催権を返上しました。これを受けカナダのウィスラーに開催を提案しますが、これも市民によって拒否されます。さらにアメリカのソルトレークシティーでの開催も提案されますが、今度はアメリカ開催に難色を示すIOC側に拒否されます。こうして1973年に過去の開催経験があるインスブルックが受け入れ、開催にこぎつけました。
今は亡き国での開催された大会
1984年のサラエボ大会は当時の社会主義国であるユーゴスラビアで開催されました。その直前の1980年夏季モスクワ大会では、ソ連のアフガニスタン侵攻に反対した西側諸国が集団ボイコットしましたが、この大会では東西陣営の国々が再会する場となりました。
しかし、オリンピックが開催されてからわずか10年もたたない内に国内は混乱します。もともとユーゴスラビアはいくつかの民族によって構成されていた国でしたが、独立の機運が高まり、民族間対立による紛争が激化したことにより、2001年にはユーゴスラビアは解体されます。現在は6つの国に分かれていますが、サラエボがあった地域はボスニア・ヘルツェゴビナに属しています。
かつてオリンピックが行われたサラエボは、この紛争により包囲され激しく攻撃されました。こうしたこともあって、かつて歓声で沸いた会場や関連施設は廃墟となっています。
夏季オリンピックとずらして開催
第一回以降、夏季オリンピックと冬季オリンピックは同じ年に開催されてきたが、1994年より、夏季オリンピックの中間年に開催することになった。そのため、1992年のアルベールビルオリンピックと1994年のリレハンメルオリンピックは、わずか2年間隔となりました。
最も低緯度での開催となった大会
長野大会は、歴代のオリンピックで最も低緯度で行われました。しかし低緯度の割に雪の多い日本特有の気候もあって開催実現に至りました。
長野の緯度 … 長野大会の会場の緯度は北緯36度~37度の間に位置しています。ちなみに1994年リレハンメル大会は北緯61度、1972年札幌大会は北緯43度で行われています。
しかし低緯度ということで大会中の雪不足が心配されました。低緯度だとせっかく雪が降っても気温によってはすぐに解けてしまいます。実際大会シーズンは暖冬が予想されていました。そのために雪不足対策が練られて大会に備えました。
しかし、大会直前の1月以降まとまった雪が降り続き、心配は杞憂に終わりました。雪不足には悩まされることはなかったものの、今度は変わりやすい冬の天気に悩まされることになりました。
実際伝説となったジャンプ男子団体では、猛吹雪と激しい風の中で前が見えないほどの中で、日本が金メダルを獲得したことは人々の記憶に残っています。
日本選手団のメダルに関する雑学
日本の初メダル
日本の冬季オリンピックメダル第一号が、1956年のコルチナ・ダンペッツオ大会で出ました。アルペンスキー回転で猪谷千春(いがやちはる)選手が銀メダルを獲得したのです。
彼の父は日本スキー界の草分け的存在といわれる猪谷六合雄で、独学でスキージャンプに取り組みます。また母・定子も日本で初めての女性ジャンパーでした。そのようなスキー一家に生まれた千春は雪が多い土地を転々とします。千春も幼少期からスキーの英才教育を施され、11歳で出場した戦時中の大会では好タイムを出して話題となりました。
戦後1952年オスロ大会に出場したものの、入賞にもメダルにも届くことはありませんでした。しかしこのときの経験が自信となります。大会後、アメリカのAIG保険創業者の支援でアメリカ留学が実現します。海外で技術や経験を深めてこの大会を迎え、銀メダルを獲得したのです。
このメダルはヨーロッパ以外の選手がアルペンスキーで獲得した初のメダルともなりました。
表彰台を独占
1972年、日本初となる冬季オリンピック札幌大会で、70m級ジャンプ(現ノーマルヒル)で金・銀・銅メダルを独占するという快挙を成し遂げました。これらのスキージャンプチームは「日の丸飛行隊」と呼ばれました。金メダルは笠谷幸生選手、銀メダルは金野昭次選手、銅メダルは青地清二選手でした。
競技当日は絶好のコンディションの中、日本チームは2回のジャンプとも好記録を連発します。1回目から上位独占し、そのまま2回目でも上位独占のまま終わりました。
続く2日後の90m級(現ラージヒル)でもメダルが当然期待されましたが、メダルの重圧などもあって思ったような結果を残すことができませんでした。笠谷選手は7位、金野選手は12位でした。
しかし、前回大会までに日本が獲得した冬季オリンピックメダルはわずか1枚で、ジャンプ競技に至っては入賞者すらいませんでした。ヨーロッパの強国に立ち向かうのは簡単なことではなかったのです。そのような中での表彰台独占に日本中が沸きました。
原田選手の伝説の大ジャンプ
1994年のリレハンメル大会で金メダルがかかった大一番のジャンプラージヒル団体で、エースの原田選手がまさかの大失速となって銀メダルに終わりました。銀メダルでも十分素晴らしい成績だったのですが、金メダルが確実視されていた中でのまさかの結果となりました。ドイツとの金メダル争いで、原田選手はK点よりもはるか手前の105mを飛べば大丈夫という状況でしたが、100mにも届かないジャンプとなってしまったのです。
4年後の長野大会を迎えます。長野大会までに世界で大活躍していた原田選手や船木選手などに当然期待は高まります。しかし1本目の原田選手の失敗もあって、1本目終了時点で全体の4位になってしまいます。そして2本目に入る前に猛吹雪が起こります。中止が危ぶまれる中再開に向けてテストジャンプが行われます。これが上手くいかなかれば競技は終了となってしまい、1本目だけでメダルが確定してしまいます。
テストジャンプは全員無事に成功させて、2本目が決行されることになります。ちなみにこのテストジャンパーの中には、前回のリレハンメル大会で銀メダルのメンバーだった西方仁也がいました。
そうはいっても依然として厳しい状況の中で2本目が行われます。いよいよ3番手で原田選手の順番がやって来ました。そしてこのジャンプでバッケンレコードに並ぶ137mの大ジャンプをしました。続く船木選手が125mを決めて金メダルを確定させました。この船木選手のジャンプ直前に原田選手の名言「ふなき~」が生まれたのです。
バッケンレコードとは … スキージャンプ競技の公式記録において、そのジャンプ台で記録された最長不倒記録のことです。バッケンはノルウェー語で「丘」という意味があります。


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