西郷隆盛について
幕末に活躍した大久保利通(薩摩藩)・木戸孝允(長州藩)とともに、「維新の三傑」とあげられた西郷隆盛は、1828年(文久10年)1月23日に薩摩藩の貧しい下級武士の家に生まれました。彼はどんな生涯を送ったのでしょうか。
幼少から成人まで
幼少期は身体が弱かった隆盛でしたが、たくましく成長します。13歳でけんかに巻き込まれます。そのさいの傷が原因で右ひじが動きにくくなり、刀が自由に振れなくなりました。武芸の道を極めることは難しいと悟った隆盛は、学問の道に励むようになります。
16歳のとき、藩の郡方書役助(こおりかたかきやくたすけ)という役職を任されます。農政に関する事務方として働きました。
1851年(嘉永四年)に、島津家の藩主の跡継ぎ騒動(お由羅騒動)を経て、斉彬は薩摩藩主に就任します。斉彬は薩摩藩の近代化を実行するために様々な事業を推進していきます。
隆盛は仕事に邁進しながら、藩の農政に関する改革案を意見書として提出しました。この意見書が島津斉彬の目に留まります。その後、中御小姓(なかおこしょう)という役職つまり藩主の下での雑用係に抜擢されるようになります。
島津斉彬の下で
1854年に27歳で薩摩藩主の斉彬とともに参勤交代の列に加わりました。隆盛は庭方役という役職を任されました。下級武士出身の隆盛が、斉彬のそばでサポート役として働くことができたのです。このように異例の出世を遂げます。こうして斉彬に対して隆盛は厚い信頼を寄せます。
しかしそんな矢先に斉彬は急死します。ショックを受けた隆盛は、斉彬の後を追って自ら命を絶とうと考えましたが、清水寺の月照の言葉に励まされて思いとどまります。
月照(げっしょう) … 江戸時代末期の僧で、京都・清水寺成就院の住職でした。幕末に尊王攘夷運動に没頭し、幕府から要注意人物と見られていました。
島々での生活
1858年(安政五年)に大老井伊直弼が安政の大獄を行って、幕府の政策に反対する者たちを一掃しようとします。それらの者と同様に月照も幕府に追われる立場になりました。隆盛は月照を匿おうとしますが、薩摩藩にも受け入れてもらえなかったために、二人は海に身を投じて自ら命を絶とうとします。月照は亡くなりますが、隆盛は奇跡的に生き延びます。幕府の目を恐れた薩摩藩は、隆盛に奄美大島での生活を命じます。
その後数年が経った1862年(文久二年)、大久保利通が間に入って薩摩本土に戻ることができました。しかし藩に戻った後、島津久光の命令に背いて怒りを買いました。今度は徳之島や沖永良部島に島流しにされて、牢獄に閉じ込められてしまいます。死罪にはならなかったものの、ここでの生活は劣悪なものでした。
薩摩藩にも次々と様々なことが起きます。隆盛と関係のあった人たちから赦免を願うようになりました。久光はあまり気の進まなかったものの、藩の未来を考えると、隆盛のような行動力のある人物は必要でした。こうして1864年(元治元年)に罪を赦されて薩摩に戻ることができました。

倒幕での活躍
島での不遇な生活を送った後、隆盛は軍の最高司令官を任されます。1864年(元治元年)に蛤御門の変(禁門の変)が起き、倒幕の中心だった長州藩と激しい戦いを行います。隆盛は手腕を発揮し幕府側とともに長州藩を退けます。
蛤御門の変によって幕府に追われるようになった長州藩に対して(第一次長州征伐)、参謀となった隆盛は直接長州の下関に乗り込み、話し合いで事態を解決しようとしました。当時の長州藩との関係から考えると、直接乗り込むのは無謀に思えましたが、日本の未来を考えると内戦している場合ではないとの見地から平和的に解決しようとしました。実際戦闘は行われませんでした。
倒幕の動きが強まっていた長州藩の動きに対して、幕府は再び長州征伐を行おうとします。もともと幕府寄りだった薩摩藩は、幕府の強引なやり方に不満を持ちます。次第に幕府に対抗するために、薩長で協働体制を整える必要性を考えるようになります。これまでの長州藩との関係から同盟を組むことなど困難に思えましたが、坂本龍馬などの尽力もあり話が進んでいきます。
1866年(慶応二年)に薩長同盟を結びます。この同盟は龍馬立会いのもと、薩摩側・西郷隆盛と長州側・木戸孝允の間で結ばれました。これまでのライバルが手をつなぐことにより、倒幕の体制が整いました。
その後、近代兵器や同盟を組んでいた薩摩藩の協力もあって、第二次長州征伐は幕府側の劣勢になります。さらに将軍徳川家茂の急死によって作戦は中止に追い込まれます。将軍は徳川慶喜に引き継がれました。
1867年(慶応三年)に薩摩藩・長州藩に朝廷から倒幕の許可が下りたことに先手を打つようにして、幕府はついに朝廷に政権を返上します(大政奉還)。慶喜としてはこれ以上の倒幕の流れを食い止めるため、さらに朝廷側に政権運営能力など無いと踏んだことによって決断したのでしょう。
大政奉還に対抗して、隆盛・利通・岩倉具視らによってクーデターが起き、王政復古の大号令が発令されました。こうして徳川家の影響力を排除しようとしました。こうして新政府が樹立されました。
しかし幕府側も黙っていません。引き続き新政府側と旧幕府側で対立が深まります。1868年(慶応四年)、鳥羽・伏見の戦いをきっかけに戊辰戦争が勃発します。隆盛も東征大総督府参謀として軍を率います。当初は拮抗した戦いでしたが、薩摩藩・長州藩側の新政府軍が官軍(朝廷公認の軍)になると旧幕府軍は劣勢に立たされます。
新政府軍は江戸を目指して進軍していましたが、隆盛は幕府側の勝海舟と会談して総攻撃の中止を決定します。これにより江戸城は戦火を交えることなく幕府に明け渡させました(江戸城無血開城)。
さらに幾つもの戦いを経て、函館の戦いをもって戊辰戦争は新政府軍の勝利に終わります。
政府の中枢へ
戊辰戦争後、地元に戻って藩政改革に取り組むことになります。
一方で岩倉具視・木戸孝允・大久保利通らが中心の新政府はまだまだ盤石ではなく、組織も財政も不安定な状況でした。そこで隆盛の必要を感じた大久保利通らの説得によって新政府に参加します。
1871年(明治四年)、隆盛は廃藩置県によって、幕藩体制の残りの解体に取り組みます。
同年、岩倉使節団が欧米を視察するために出発します。政府からは木戸孝允・大久保利通らが同行します。このさいに留守中の内政を任されたのが隆盛でした。使節団の留守中に隆盛は次々と政策を打ち出します。その中には学制の発布、太陽暦の採用、徴兵令の布告、地租改正などがありました。こうして近代国家としての一歩一歩前に進んでいきます。
地租改正の詳しい解説については、以下の記事をご覧ください。

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政府を去る
この頃、朝鮮問題が起こります。新政府の樹立によって朝鮮との国交は途絶えていました。新政府は国交を回復するための努力しますが、朝鮮は頑なに拒否します。これに対して政府では軍を派遣して強硬な態度に出る征韓論が主張されるようになりました。
この問題を解決するために、即時軍隊を派遣するのではなく。隆盛自身が全権大使として朝鮮に赴いて話し合おうと考えます。しかし帰国していた利通は内政に力を向けるべく立場として、隆盛と全面的に意見が対立します。それでも隆盛の全権大使就任は決定されましたが、岩倉らの策略により派遣は直前で中止させられます。この結果、隆盛は政府を去る決断をします(明治六年の政変)。
鹿児島に戻った隆盛は、地元で穏やかな生活を送ります。
西南戦争に至るまで
鹿児島県(旧:薩摩藩)に戻った隆盛は、士族のために「私学校」を創設します。
この頃、時代の変化によって、かつての安定した立場や特権を失った士族(旧武士)たちは現状に不安や不満を持っていました。こうして全国各地で士族による反乱が起こります。しかしこのような動きに対して隆盛は同調していた訳ではありませんでした。
それでも政府は放っておきませんでした。明治維新で大活躍した旧薩摩藩の士族は大きな脅威だったからです。彼らを監視するために警視庁がスパイを送り込みます。さらに鹿児島から兵器を移動させようとします。
このような政府のやり方に私学校の関係者たちは激怒し、1877年(明治十年)1月29日に陸軍の火薬庫を襲撃します。このことに隆盛が関わっていた訳ではありませんが、この勢いを止めることはできず、政府に対して出兵を決意します。このたびは隆盛が率先して戦争の指導者になった訳ではなく、そのような立場にならざるを得なかったのです。
2月15日、東京へ兵を進め始めます。これによって西南戦争が開戦しました。薩摩軍は九州を北上するために熊本へ向かいます。陸軍の部隊が置かれていた熊本鎮台などで激しい戦闘を繰り広げますが、圧倒的な兵力を持つ政府軍に対して戦況は厳しさを増します。
3月4日~20日の田原坂の戦いでは両軍の激戦となりますが、薩摩軍の敗走となります。
8月15日、延岡での戦いで大敗して鹿児島へ引き返します。8月16日には隆盛によって軍の解散命令も出されます。
鹿児島へ命からがら戻った隆盛らは、9月1日に城山に立て籠もります。
9月24日、政府軍は総攻撃によって城山は集中攻撃を受けます。隆盛たちは最期を覚悟して山を下りていきます。そのさいに一発の銃弾が隆盛の体に命中します。絶命はしていませんでしたが、傍らにいた別府晋介に対して、自身に刀を抜くように命じます。晋介は隆盛の首斬り落としました。こうして晋介によって介錯されました。享年四十九歳の激動に満ちた人生でした。こうして新政府軍の勝利に終わります。
9月24日は西郷隆盛の忌日(亡くなった日)で、南州忌として知られています。西郷忌や隆盛忌とも呼ばれています。
隆盛の亡くなった後
西南戦争の士族の敗北によって、政治的な意思表示は、武力行使から言論を戦わせることに変化していきます。この戦いによって武士の時代は終焉したといえます。
明治天皇は戦争直後、宮中の歌会で「西郷隆盛」をお題にしています。また勝海舟は隆盛の名誉回復のために尽力しました。その結果、東京・上野公園に西郷隆盛の銅像が設置されました。

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