三大和歌集とは
古代から中世に書かれた「万葉集」「古今和歌集」「新古今和歌集」は日本を代表する和歌集としてとても有名です。これらの3つの和歌集を「三大和歌集」ともいいます。これらの和歌集と百人一首にはどのような関係があるのでしょうか? 考えてみましょう。
この他にも同じ読み方で三代和歌集(三代集)がありますが、この記事で取り上げる三大和歌集とは異なります。ちなみに三代和歌集とは、「古今和歌集」「後撰和歌集(ごせんわかしゅう)」「拾遺和歌集(しゅういわかしゅう)」のことを指します。
万葉集
- 時 代:奈良時代の終わり頃(800年頃に完成)
- 和歌数:約4500首
- 編纂者:大伴家持(おおとものやかもち)他にも
- 文 字:万葉仮名(漢字)
- 特 徴:写実的・素朴 など
現存する日本最古の和歌集です。「万葉集」という名称の由来は、葉が世を意味していて、万世つまりいつの時代までも伝わるようにという願いが込められています。まさにこの名称通り、現代まで大切に伝わってきました。
全20巻で約4500首が収められています。作者は天皇から下級な目立たない立場まで、様々な背景の人々によって書かれました。また詠まれている地域も広範囲に渡りました。
最終的な編纂者の一人は大伴家持といわれていますが、その以外にも複数の人物が関わっていると見られています。
文字は、日本語を漢字を利用して表した万葉仮名で書かれています。そのために読むにくさを感じますが、日本人の歌を何とかして日本語で残そうとした努力が伺えます。全体の90%位は五・七・五・七・七の形式から成る短歌が占めていますが、この字数以外の長さを持つ歌もいくつも含まれています。
ちなみに、現在の元号である「令和」は、万葉集の歌から取られています。
万葉仮名については、以下の記事をご覧ください。

古今和歌集
- 時 代:平安時代の初め頃(913~914年に完成)
- 和歌数:1111首
- 勅 命:醍醐天皇
- 編纂者:紀貫之(きのつらゆき)・紀友則(きのとものり)・凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)・壬生忠岑(みぶのただみね)
- 文 字:仮名文字・漢字
- 特 徴:繊細・優雅・観念的 など
日本最初の勅撰和歌集で国風文化を代表する作品です。実は万葉集以降、漢文の隆盛によって一時的に和歌は落ち込んでいました。しかし、貴族が栄えていた平安期、和歌を詠むことが公私ともに盛んに行われていきました。コミュニケーションの手段や娯楽として広まっていたのです。
古今和歌集は和歌の再興に一役買いました。そして古今和歌集以降、勅撰和歌集が次々と編纂されていくことになります。
この和歌集には「古今」という名称が付いています。それは、その当時から見た古い時代(万葉集の頃)から今(編纂された当時)までをまとめた歌集であるという意味と、勅撰された時代を将来から見て古(いにしえ)の和歌の聖代と仰ぎ見るだろうという2つの意味が重なっています。
この和歌集は、第60代醍醐天皇の勅命によってまとめられました。
全20巻で1111首が収められています。
編纂者は紀貫之、紀友則、凡河内躬恒、壬生忠岑です。
この和歌集には序文(和歌集の冒頭に書かれた文章)があります。仮名文字(ひらがな)で書かれた「仮名序(かなじょ)」と、漢文で書かれた「真名序(まなじょ)」という部分がありますが、当時広まっていた新しい文字であるひらがなが取り入れられました。
なぜ日本独自の歌を集めた和歌集に漢文が入っていたのかな?
それは中国文化の影響が残っていたからです。貴族社会における公的文書は漢文で書かれることが当たり前だったので、漢文で書かれた序文も必要だったと思われます。
四季の歌、恋の歌などの美しい歌が多数収められています。
新古今和歌集
- 時 代:鎌倉時代(1205年に完成)
- 和歌数:約2000首(数え方によっていくつかの説があります)
- 勅 命:後鳥羽上皇
- 編纂者:藤原定家・源通具(みなもとのみちとも)・藤原家隆(ふじわらのいえたか)・藤原雅経(ふじわらのまさつね)・藤原有家(ふじわらのありいえ)
- 文 字:仮名文字・漢字
- 特 徴:情緒的・象徴的・技巧的 など
これも、古今和歌集同様に勅撰和歌集となっています。古今和歌集から数えて8つ目の勅撰和歌集になります。
この和歌集は、後に承久の乱を起こしたことでも有名な後鳥羽上皇の勅命によって編纂されました。後鳥羽上皇は、幕府と対峙した行動力のある人という印象がありますが、和歌にも力を入れたように文化面でも造詣が深い人物でした。
上皇は藤原定家の才能を見出し、勅撰和歌集の編纂という大役を任せます。そしてこの定家が後に百人一首を選定していくことになるのです。
この和歌集にも序文があります。仮名文字で書かれた「仮名序」と、漢文で書かれた「真名序」から成っています。
全20巻で約2000首が収められています。
編纂者は藤原定家、源通具、藤原家隆、藤原雅経、藤原有家です。藤原定家は後に小倉百人一首の編纂者となった人物です。
百人一首とは
- 時 代:鎌倉時代(1235年5月27日に完成)
- 和歌数:100首
- 編纂者:藤原定家(ふじわらのていか)
百人一首とは、百人の歌人の和歌を一人につき一首ずつ選んで作られた藤原定家による私選和歌集のことです。これらの和歌は様々な勅撰和歌集から取られました。
勅撰和歌集とは … 天皇や上皇の命令によって編集された和歌集のことです。平安時代の古今和歌集から始まって、室町時代になるまで定期的に編纂されました。合計で21の勅撰和歌集があります。
定家と親交のあった鎌倉幕府の有力御家人 宇都宮頼綱という人物が、藤原定家に歌の選定を依頼しました。
藤原定家とは … 公家出身で、平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した和歌の名人です。歌人の両親を持つ生粋の歌人でしたが、あまり高い評価を受けることなく時が過ぎていましたが、後鳥羽上皇に才能を見出され、新古今和歌集の編纂者にもなりました。後に小倉百人一首を手掛けることにもなりました。定家は晩年に至るまで活動します。
なぜ頼綱がそのような依頼をしたかというと、京都小倉の頼綱の山荘の室内の襖に貼るための装飾として、色紙に和歌を書いて欲しかったからです。これが歌集(「百人秀歌」)となり、後に百人一首として広く受け入れられるようになっていきます。このように小倉百人一首の原型が出来たのです。
百人秀歌とは … 20世紀になってその存在が知られるようになりました。現在の小倉百人一首と97首が一致しています。これが小倉百人一首の原型となったといわれていますが、確かなことは分かっていません。
室町時代(戦国期)にポルトガルから「かるた」(カードゲーム)が入って来ます。それが日本風に作り変えられて、後にかるた遊びの人気が出ます。江戸時代に百人一首もかるた遊びの一種として庶民の身近な娯楽として広く普及していきます。さらに明治時代になってから競技かるたが誕生します。
三大和歌集と百人一首の関係は?
百人一首は、古今和歌集から続後撰和歌集までの10の勅撰和歌集から取られています。内訳は以下のようになっています。
| 和歌集 | 採用数 | 和歌集 | 採用数 |
|---|---|---|---|
| ①古今和歌集 | 24 | ⑥詞花和歌集 | 5 |
| ②後撰和歌集 | 7 | ⑦千載和歌集 | 14 |
| ③拾遺和歌集 | 11 | ⑧新古今和歌集 | 14 |
| ④後拾遺和歌集 | 14 | ⑨新勅撰和歌集 | 4 |
| ⑤金葉和歌集 | 5 | ⑩続後撰和歌集 | 2 |
※古今和歌集から新古今和歌集までをまとめて八代集ともいいます。
百人一首には古今和歌集から最も多くの和歌が採用されています。さらに新古今和歌集からも他の歌集と並んでそれに次ぐ数が採用されています。
定家がどのような選定基準で厳選したのかは明確なことは分かっていません。中には歌人として非常に優れているのに選ばれていない人や、逆になぜ選ばれたのか疑問符がつく凡庸な歌も含まれています。
もともとは個人的に依頼された案件だったので、選定には定家自身の好みやセンスが反映されていると思われます。また、武士社会が勢いづく中で、当時の権力者たちへの政治的な配慮もあったのではないかともいわれています。
さらに上の表を見て気付かれたと思いますが、万葉集からは全く選ばれていません。
万葉集から選ばれていないので、百人一首と万葉集とは無関係ではありませんか?
直接選定されていないのですが、選ばれた歌の「元となる歌」が万葉集にはいくつか含まれています。つまり万葉集の歌が、後の時代に言葉遣いや表現そのものを変えて勅撰和歌集に取り入れられて、さらにそれが百人一首に選ばれた訳です。このように考えると万葉集から間接的に選ばれているといえます。
元となった歌と百人一首の歌を比べてみましょう。
天智天皇の歌
【後撰集から百人一首へ】秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ
作者未詳
【万葉集】秋田刈る 仮庵を作り 我が居れば 衣手寒く 露ぞ置きにける
持統天皇の歌
【新古今集から百人一首へ】春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天の香久山
【万葉集】春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣干したり 天の香久山
柿本人麻呂の歌
【拾遺集から百人一首へ】あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の 長々し夜を ひとりかも寝む
作者不明
【万葉集】 あしひきの 山鳥の尾の しだり尾の 長々し夜を ひとりかも寝む
山部赤人の歌 【新古今集から百人一首へ】田子の浦に うち出でて見れば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ 【万葉集】田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける


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