ワイマール憲法とは
1919年にドイツ共和国で制定された憲法のことです。ヴァイマル憲法ともいいます。
この憲法の特筆すべきことは、当時世界で最も民主的で先進的な憲法であったことです。そしてこの憲法は、後に多くの国々に大きな影響を与えました。
この記事では、このような憲法が第一次世界大戦後のドイツで生まれた経緯や内容を解説します。
この憲法は、ドイツ語に近い発音だと「ヴァイマル憲法」と表記されますが、この記事では英語の発音に近い形である「ワイマール憲法」に統一して解説します。
制定された経緯
第一次世界大戦末期の1918年11月3日、ドイツ革命が勃発します。革命の原因は戦争の長期化と疲弊によって、国民の不満が蓄積したからです。国内では労働者や兵士の革命運動が拡大し、皇帝の権威が揺らぎます。新しい民主的な政府を求める声が日増しに高まり、そのような圧力を避けられなくなった皇帝ヴィルヘルム2世は退位してオランダに亡命します。
これまで戦争に協力的だった政権は崩壊し、その後にできた臨時政府は連合国と停戦交渉を行い、11月11日に停戦協定に調印し、第一次世界大戦の事実上終結しました。
その後、一時期は社会主義を目指す動きがあったものの、最終的には共和制になりました。こうして史上初めて帝政から共和制へ移行しました。
すぐに、新政府で内務大臣に任命されたばかりのフーゴー・プロイスに起草が依頼されました。数週間で完成させた後、年が明けた1919年に発表されます。その後修正が加えられながら、数回の改定が行われていきます。
プロイスは、ドイツ社会民主党所属の政治家として経験豊富で、信頼と実績がありました。また優れた法学者でもあったので、憲法制定に必要とされる知識もたくさん持っていました。このようなことから憲法の起草者としてふさわしい人物だったのです。
改定作業を経て、1919年7月31日に新憲法制定のための会議で議決され、ワイマール共和国初代大統領によって8月11日に調印されました。8月14日に公布・施行されます。
これらの一連の出来事が、ドイツのワイマールという小さな町で行われました。ドイツでは制定された都市名をとって憲法名にする伝統があり、この憲法もそれに倣って都市名が付けられました。このようなことから「ワイマール憲法」と呼ばれるようになりました。
ワイマール(ヴァイマル)はドイツ中部に位置し、人口は数万人の小さな町です。多くの偉人を生み出してきたした文化と芸術の町です。長年詩人のゲーテの住んでいた町としても有名です。中心部にある国民劇場で憲法制定のための会議が行われました。日本の鎌倉市と友好関係にあります。
こうして新しい国の誕生とともに、これまでの憲法に代わってワイマール憲法が制定されました。当時のドイツは、この憲法の名称をとって「ワイマール共和国」と呼ばれました。
先進的な内容だった
全部で181条からなる憲法です。大きく2つ部分に分けられて、一つは国の構成及び任務について、もう一つはドイツ人の基本権及び基本義務になっています。
以下に主な条文をまとめてみました。それまでの憲法と違って、国民の目線に立った、驚くほど民主的な内容であることが分かります。日本国憲法にも通じている所がたくさんあります。
| 何 条 | 内 容 |
|---|---|
| 第1条 | 国民主権 |
| 第20条 | 議会制民主主義 |
| 第22条 | 20歳以上の男女の普通選挙(普通・平等・直接・秘密選挙) |
| 第48条 | 大統領緊急令 |
| 第109条 | 平等の原則・男女同権 |
| 第111条 | 移転・職業の自由 |
| 第114条 | 身体の自由 |
| 第116条 | 罪刑法定主義 |
| 第118条 | 表現の自由・検閲の禁止 |
| 第120条 | 子どもの教育の保障 |
| 第123条 | 集会の自由 |
| 第124条 | 結社の自由 |
| 第135条 | 信教・良心の自由 |
| 第142条 | 芸術・学問の自由 |
| 第151条 | 生存権の保障(経済的自由) |
| 第153条 | 所有権の保障 |
| 第159条 | 労働者による団結権の保障 |
| 第161条 | 社会保険制度 |
以上の条文の中でも、注目できる点について取り上げます。
第48条とは
『ドイツ国内で、公共の安全及び秩序に著しい障害が生じ、あるいはそのおそれがあるときは、大統領は、公共の安全及び秩序を回復させるために必要な措置がとることができ、必要な場合は武装兵力を用いて介入することができる。』という内容です。またこのために、身体・表現・集会・結社の自由、所有権の保障などを全部または一部を停止することができました。
簡単にいうと、緊急時には事態を収束させる措置として、大統領が権利を行使できるということです。後にこの条項をヒトラー(ナチ党)が利用して、独裁体制を握るようになります。
第153条とは
『経済活動の秩序は、全ての人に、人たるに値する生存を保障することを目指す、正義の諸原則に適合するものでなければならない。』と保障していました。
簡単にいうと、社会の中で全ての人が人間らしく生きていくための権利です。産業革命以降、資本主義が発達し、経済的活動が活発になる中で、貧富の格差が広がっていきます。そのような状況で、労働条件の悪化などが問題となってきました。
そのような中で立場の弱い人々にも救いの手を差し伸べる必要が出てきました。このために社会的な格差を正し、全ての人に最低限の生活を営めるような権利(つまり生存権)を保障することが急務だったのです。
社会権については、以下の記事をご覧ください。

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その後
ワイマール憲法下での選挙は民主的に行われたものの、比例代表制であったために、過半数に満たない小党が分立する状況になり、連立政権が続きました。このような中で政治は不安定になりました。
追い打ちをかけるように1929年に起こった世界恐慌により、ドイツも経済の打撃を受けます。それに対して有効な手を打てない政府に対して国民の不満は高まっていきます。
このような社会不安を背景に、ヒトラー率いるナチ党が台頭し、急速に議席を拡大していきます。
1933年にヒトラーが政権をにぎると事実上の停止されます。その後はヒトラー政権下で実質形骸化していましたが、1949年に東西ドイツでそれぞれの憲法が成立されるまで形としては存続しました。
結局は、1919年~1933年までの実質14年ほどしか機能しませんでした。しかし民主主義の確立目指したり、多くの基本的人権を明記したりすることによって、後の歴史に大きな影響を与えたことは確かです。

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