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【歴史】小泉八雲の妻・小泉セツが生きたのはどんな時代だったのか?

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小泉セツとはどんな人物か

小泉八雲(英語名:ラフカディオ・ハーン)の妻で、正式には小泉セツだが、本人は小泉節子という呼び名も用いました。

セツの夫ハーン(後の小泉八雲)は、1850年に現在のギリシャ領にある地中海の島で生まれました。若い頃から苦労したハーンは、心機一転渡米します。万博で日本文化に接したことをきっかけに関心を持ち、出版社の通信員として1890年(明治23年)に来日します。その後日本で英語教師をしながら作家などで活躍しました。

日本語の読めないハーンの執筆活動に、セツは欠かせない存在でした。セツが語ったものから出てきた作品もありました。有名な怪談話の中にも、セツが語ったものが由来になった作品がありました。セツがいなれば八雲の素晴らしい作品の数々は生まれなかったといっても過言ではありません。

2025年後期(2025年9月~)に、NHKの連続テレビ小説で「ばけばけ」が放送されています。小泉セツ・八雲夫婦がモデルの物語が、半年間に渡って放送されます。

特にこの記事では、小泉セツの生涯と、生涯中にどんな歴史の出来事があったかを解説します。

セツが生まれた時代 … 幕末

彼女は、1868年(慶応4年)2月に松江藩の家臣であった小泉家に生まれます。それなりの由緒ある家柄だったことが分かります。セツが生まれたこの年は歴史上な重要な年となりました。

1867年(慶応3年)の大政奉還からの流れを受け継いで、1868年の年明けから王政復古の大号令戊辰戦争五箇条の御誓文、江戸城無血開城、元号が明治に改元と、教科書でも出てくるような重要な出来事が一気に起こります。

さらに1871年(明治4年)、廃藩置県によって松江藩は松江県になります。このようにして、約260年続いた徳川家による江戸幕府から明治新政府へと政権が移譲されていったのです。

セツは、このように激動な時代に誕生したのです。セツは恵まれた家庭の出身でした。しかし時代が武士中心の時代が終わることによって、大きな影響を受けるのです。

セツが育った時代 … 明治維新

セツは、生まれてからすぐに親戚の稲垣家の養女となります。稲垣家には子どもがいなかったからです。稲垣家で養父母にかわいがられて育っていったようです。民話や伝説を聞いたり話したりすることが好きな子どもでした。

また、できたばかりの小学校にも通い成績も優秀でした。1872年(明治5年)に学制が発布されて、6歳以上の子どもに教育を受けさせることが義務になっていたからです。

しかし、「明治維新」というだけあって、時代は大きく変化していました。武士は士族と呼ばれるようになって、皇族以外は平等とされて、江戸時代の身分制度は廃止されました。さらに解放令(1871年/明治4年)によって、差別されていた人々も平民と同等にすることになりました。

このような身分制度の改革に伴って、士族の特権もなくなっていきました。1876年(明治9年)には廃刀令が出され、秩禄制度も終了しました。特に秩禄制度がなくなったことは士族の生活に大打撃を与えました。

秩禄制度とは … 明治政府が、華族や士族に支給していた家ごとの給与のことです。江戸幕府からの延長として武士への給与が継続していましたが、政府の財政に大きな負担となることが理由として廃止されました。

武士であった稲垣家では収入がなくなったために、養父は生活をしていくために商売に手を出します。しかし慣れない商売は失敗し、家計は苦しくなります。このためセツは上の学校へ進学することを諦めます。

学業が優秀であったセツにとって、このことは困難な決断であったに違いありません。その後、家族のために自ら働きます。実父の小泉家が始めていた機織会社で機を織って家計を支えようとします。

ハーンとの出会い … 明治半ば以降

セツが19歳になったとき、前田為二という人物と結婚します。しかし、夫為二は困窮する稲垣家の行く末に希望を持てなかったのか、わずか1年で逃げ出してしまいます。

さらには、実家の小泉家の会社も倒産してしまいます。明治時代も進んでいましたが、旧士族の生活は、相変わらず安定しなかったことが分かります。

1891年(明治24年)、実家を支えるために小泉家に復籍した後、養父母や実母を支えるためにある仕事を引き受けます。それは、当時松江で外国人教師であったハーンの下で、住み込みで世話をする女中の仕事だったのです。こうして二人は運命的に出会い、年齢差があったもののお互いに惹かれ合っていきました。二人の関係は、雇用主と労働者の関係から大切なパートナーへ変化していきました。二人は同年に結婚します。

それからハーンが学校の教師になるために熊本に移転、さらに1896年(明治29年)には東京に移転して、帝国大学で教えます。その間セツは、1893年(明治26年)~1903年(明治36年)にかけて4人の子どもを次々ともうけます。

1896年にハーンは日本への帰化も果たして、「小泉八雲」と名乗ります。セツは三男一女の母親として充実した忙しい日々を過ごします。(ハーンが入婿という形で正式に結婚したのは1896年です)

帝国大学とは … 1877年に東京大学が創設され、1886年に東京帝国大学に改称されました。

その頃、日本は日清戦争(1894年/明治27年)や日露戦争(1904年/明治37年)を経験します。戦争に勝利して、帝国主義国として世界の仲間入りを果たしていくことになります。近代国家として邁進していく日本の姿を見て、ハーンはそれらの戦争を現実的に捉えながらも、当時の庶民の生活についても記録しています。

1904年、八雲は事情があって帝国大学を離職し早稲田大学の講師につきます。しかし同年、54歳で心臓発作によって自宅で突然亡くなります。当時セツはまだ36歳でした。まだまだ子育ても必要な子どもを4人も抱えている中で八雲は逝ったのです。

未亡人として生きた時代 … 明治・大正・昭和

八雲が亡くなった後、セツはまだ幼い子どもや親族などを世話することが必要でした。また若い頃のように困窮した生活に戻ってしまうのでしょうか?

八雲は、全財産をセツに譲ることを公的な形で遺言していました。こうしてセツの家族は財産を失わずにすんだのです。それには親友の支えがありました。

以前から家族と親しかった八雲の親友であるミッチェル・マクドナルドが、八雲の著作権の管理したことによって、継続的に八雲の作品の印税収入を得ることができました。またマクドナルドはセツの長男一雄の支えともなりました。こうしてセツとその家族は、まわりの人の支えもあって、安定した生活を継続することができました。

1914年(大正3年)に第一世界大戦が開戦します。この年、セツは八雲との思い出を手記(「思い出の記」)にまとめて出版されます。

1923年(大正12年)に関東大震災が発生して、東京は甚大な被害を受けました。このときに東京の自宅にあった八雲の蔵書も焼失します。震災後安全に保管できる先として旧制富山高等学校に譲渡されます。これらの蔵書は後に富山大学に引き継がれて、現在は「ヘルン文庫」として所蔵されています(「ヘルン」は八雲の呼び名でした)。また残念なことに、この震災で横浜グランドホテルの社長であったマクドナルドが、人を助けたために亡くなっています。

60歳を過ぎた頃から動脈硬化に悩まされます。1932年(昭和7年)2月18日、セツは八雲と過ごした東京新宿の家で脳溢血で息を引き取ります。64歳でした。1932年は戦争に向けて日本が軍国主義へと進んでいった時期でした。セツが亡くなった直後、満州国の建設や五・一五事件などが起きたのです。

セツが生きた時代は、日本が幕末から昭和初期の戦時下に入ろうとする、まさに激動の時代でした。

関東大震災についての詳しい解説は、以下の記事をご覧ください。

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