俳句とは
8月19日は、「俳句の日」です。正岡子規を研究していた俳人の坪内稔典らによって1991年に制定された日です。さらに2014年以降、この日は「俳句記念日」(一般社団法人・日本記念日協会による認定)にもなりました。俳句の日も俳句記念日も、8月19日の、は(8)い(1)く(9)を語呂合わせで読んでいます。
俳句は、主に五・七・五の十七音で表現されていて、世界で一番短い詩ともいわれています。
俳句にはどのような特徴があるでしょうか?
- 俳句といえば、「季語」があります。基本的に季節を感じさせる言葉を俳句に中に取り入れます。しかし、季語を持たないものも俳句(無季俳句)もあります。
- 「切れ字」という技法もあります。切れ字には、「や」「かな」「けり」などがあります。これらを入れることによって、句全体にリズムを付けて、作品に間を持たせることによって、詠む人の心を動かす効果があります。
- さらに、「字余り」もあります。これは五・七・五のいずれかが、定型よりも音の数が多いことです。逆に「字足らず」もあります。
俳句に至るまでの歴史
現在は五・七・五からなる俳句が独立して存在しますが、最初からこの形で存在していた訳ではありません。時代とともに歌が変化した結果が俳句となったのです。
では俳句に至るまでの歴史を見てみましょう。
和歌
古代から和歌が親しまれてきました。和歌はその名の通り、もともとは日本独自の歌を指していて、中国の漢詩に対して歌われました。
その中には長歌(ちょうか)・旋頭歌(せどうか)などの様々な長さの歌がありました。そのような和歌の中に、五・七・五・七・七の三十一音で構成される短歌があったのです。
長歌とは … 五・七・五・七を3回以上繰り返して、最後はさらに七音を添えて終わる歌のことです。(例:五・七・五・七・五・七・・・・・五・七・七) 万葉集には約260首が収められています。
旋頭歌とは … 五・七・七・五・七・七の形式の歌のことです。三句ずつの二首の問答歌が合体して一首になったものです。万葉集にはわずかながら収められています。
例えば、奈良時代末期に成立した万葉集にも、上記のような様々な形式の歌が収められていますが、その内の90%以上が短歌になっています。このことから、この時代にはすでに多くの短歌が歌われていたことが分かります。
平安時代になると、短歌は一つのジャンルとして確立していきます。さらに平安時代に広まって来たひらがなを使って、短歌が詠まれるようになって、短歌は和歌の主流になっていきました。事実上、和歌といえば短歌のことと考えられるようになっていきました。
短歌について … 現在では「短歌」というと、明治時代以降に書かれた五七五七七の歌のことを指していて、それ以前(江戸時代以前)の短歌形式(五七五七七)の歌は、「和歌」と呼んで区別しています。
このような和歌(短歌)は、平安時代の貴族社会において、公私ともに歌われていきました。
平安時代~室町時代にかけて、古今和歌集・新古今和歌集などの多くの勅撰和歌集がありますが、小倉百人一首のような私撰和歌集は、現代でも身近に親しまれています。
有名な和歌集や小倉百人一首については、次の記事をご覧ください。

連歌
連歌は、複数の人がリレー形式で短歌を詠むことで、鎌倉時代になって流行り始めました。和歌から出てきた連歌は、短歌を「上の句」(五・七・五)と「下の句」(七・七)の二つに分かれて、それぞれ別の人が詠み続けていきます。
どれほどつなげていくのかは、時代によって異なりますが、時代とともに、詠み連ねていく句の数が増えていきました。室町時代には、100句とつなげて一つの歌とする長連歌が流行りました。
俳諧
俳諧は連歌から派生した歌でした。連歌と同じような形式だったので、俳諧連歌(俳諧の連歌)を省略して「俳諧」とも呼ばれるようになります。
俳諧とは … もともとは「滑稽」(こっけい)を意味する中国語のことです。
江戸時代になると俳諧連歌が流行ります。連歌と比べて、俗語・漢語も使ったり、遊びの要素を取り入れるようになったりして、庶民に広く浸透していきます。このようにして俳諧は、連歌の要素を受け継ぎつつも、より自由で滑稽な表現を求めていきます。
さらに江戸時代、松永貞徳、西山宗因、松尾芭蕉などによって発展していきます。特に芭蕉によって芸術性も高められていきます。
連歌と俳諧連歌と違いが分かりにくいので、下の表に比較してみました。
| 連歌 | 俳諧 | |
|---|---|---|
| 流行った時代 | 鎌倉・室町時代 | 江戸時代 |
| 言葉 | 大和言葉(和語)を使用する | 俗語・漢語など自由に使える |
| 世界観 | 優美 | 滑稽・ユーモア |
| 誰に流行ったか | 貴族・武士 | 一般庶民 |
※2:江戸時代半ば以降現在に至るまで、三十六句詠み繋げることが連歌の基本となってきました。
明治期の俳句の確立
明治に入ると、正岡子規が俳諧に大きな影響を与えます。
子規は俳諧連歌は文学ではないと厳しく言い切り、俳諧連歌の五・七・五の発句(最初の句)から完全に独立させて、その部分を「俳句」と呼ぶようになりました。このように俳句が誕生しました。
子規は、江戸時代以降の月並みな言葉遊びに傾倒した俳諧連歌(俳諧)に対して批判的でした。当時、江戸俳人として確固たる地位を築いていた松尾芭蕉に対しても批判的でした。
一方で、それまであまり認められていなかった、与謝蕪村の写実性ある作品を評価することによって、俳句に対する新しい価値観を見出していきました。
正岡子規の評価の結果、与謝蕪村は、松尾芭蕉・小林一茶と並んで江戸時代の三大俳人として知られるようになっていきます。
このようにして子規は、写実による現実的な世界観を主張して、それを俳句にも取り入れようとします。このような新しい俳句を探求する動きは、低迷していた俳句の世界にも大きな影響を与えました。
写実主義とは … 現実をありのままにとらえて、それを表現しようとする芸術のこと。
子規の努力によって、俳句は近代文学へと生まれ変わっていきました。


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