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【歴史】なぜ高校野球は甲子園球場で行われるのか?

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甲子園球場は大正時代に完成した

甲子園球場は1923年11月(大正12年)に建設することを決定しました。1924年3月起工式が行われて、それからわずか数か月後の1924年8月(大正13年)に竣工しました。これほどの巨大施設の建設としては、今では考えられないような突貫工事でした。完成時には無味乾燥だったコンクリートに彩りを付けるため、外壁を覆うためのツタが1924年12月に植栽され、後に甲子園球場のシンボルとなっていきます。

完成当時の名称は「甲子園大運動場」と呼ばれていました。いつから「甲子園球場」と改称されたのか不明ですが、昭和初期であると推測されています。

完成当時の総収容人数は8万人(観覧座席数5万人分)の東洋一の球場でした。ちなみに、現在の収容人数は約4万3000人です(高校野球のときは約4万7000人)。

2024年に100周年を迎えました。

なぜ「甲子園」と名付けられたのか?

古代中国の数の集合の概念である十干(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸)と、十二支(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥)を組み合わせた干支というものがあります。10種類と12種類を毎年組み合わていくと最小公倍数である60年ごとに最初からスタートします。

1924年は「甲」と「子」が巡り合う演技の良い年つまり吉年でした。球場名は、このような縁起の良い干支から付けられました。

一例として1924年からの干支と西暦の関係を示します。

1924年(大正13年)甲子(きのえね)1934年(昭和9年)甲戌(きのえいぬ)
1925年(大正14年)乙丑(きのとおし)1935年(昭和10年)乙亥(きのとい)
1926年(昭和元年)丙寅(ひのえとら)1936年(昭和11年)丙子(ひのえね)
1927年(昭和2年)丁卯(ひのとう)1937年(昭和12年)丁丑(ひのとうし)
1928年(昭和3年)戊辰(つちのえたつ)1938年(昭和13年)戊寅(つちのえとら)
1929年(昭和4年)己巳(つちのとみ)    …
1930年(昭和5年)庚午(かのえうま)1984年(昭和59年)甲子(きのえね)
1931年(昭和6年)辛未(かのとひつじ)    …
1932年(昭和7年)壬申(みずのえさる)2024年(令和6年)甲辰(きのえたつ)
1933年(昭和8年)癸酉(みずのととり)2025年(令和7年)乙巳(きのとみ)

上の表のような感じで順番に組み合わせていきます。つまり次の甲子は、60年後の1984年になります。さらに次にやって来るのは2044年になります。

ちなみに、干支が入った歴史的な出来事もたくさんあります。壬申の乱(672年)、戊辰戦争(1868年)、中国の辛亥革命(1911年)などです。

干支(かんし・えと)とは … 干支というと日本では12種類だけをイメージします。しかし、元来は十干(じっかん)と十二支(じゅうにし)を組み合わせた60を一つの周期とする数の概念です。古代中国では暦・時間・方位などに用いられてきました。

 

高校野球と甲子園球場の関係

なぜ甲子園球場は造られたのでしょうか?

1915年(大正4年)から行われていた全国中等学校優勝野球大会の開催が主な目的でした。1915年8月18日に豊中球場で記念すべき第一回の大会が開催されました。この大会は後の高校野球に引き継がれたために、毎年8月18日は「高校野球記念日」として知られています。

プロ野球阪神タイガース(当時は「大阪タイガース」)の本拠地としての利用されるのは、20年後の1935年(昭和10年)のことになります。

つまり最初から甲子園は高校野球(当時の中等学校野球)のために造られたのです。

全国中等学校優勝野球大会とは … 学生野球の大会として、朝日新聞社が主催して行われていました。第二次世界大戦後に、新しい教育制度によって、1948年(昭和22年)から全国高校野球選手権大会(夏)となりました。夏とは別に、1924年から選抜中等学校野球大会(春)も行われていました。こちらも1948年から選抜高等学校野球大会(春)となりました。

中等学校とは … 戦前の日本の学校制度で、今の中学校・高校にあたる学校教育です。当時は義務教育は小学校(6年間)だけでした。小学校卒業後は、男子対象の旧制中学校、女子対象の高等女学校、専門的なことを学ぶ実業学校などに分かれました。
これとは別に、旧制中学校より上に高等学校がありました。これは今の高校とは異なる存在で、男子のみが進学できました。この学校は、大学進学のための予備教育を行うための位置づけで、入学するのも困難なエリート校でした。戦後、大学へ吸収されていきます。

全国中等学校優勝野球大会は、大阪府の豊中グラウンドや兵庫県内の鳴尾球場で行われていたが、開催とともに人気を博し、観客も増加していきました。観客の多さに対して、客席数が足りなかったこともあり、本格的な野球場が望まれました。実際、1923年にはスタンドに入り切れなかった大勢の観客が、グラウンドになだれ込んで来て試合が中断したほどでした。

そこで、大勢の観客を収容できるように、アメリカ大リーグにあるような球場をイメージして、当時阪神間での都市開発を進めていた阪神電鉄が建設を進めました。

完成時の名称(「甲子園大運動場」)から分かるように、当初は陸上競技などの他のスポーツの利用も想定したものでした。1929年の改修から野球専用の施設となりました。

戦後の教育改革によって、現在の高等学校のための野球大会へと移行していきます。この結果、毎年、夏の「全国高等学校野球選手権大会」、春の「選抜高等学校野球大会」が行われています。

甲子園球場は「高校野球」優先で開催されている

甲子園球場が造られたいきさつを考えてみると、もともとは、高校野球(昔は中等学校)の野球大会のために造られた施設でした。

そのことを考えると、現在、阪神電鉄にとって阪神タイガースが大きな収益を生み出す柱になったとしても、高校野球の大会期間中は、高校野球を最優先で行われていることが理解できます。そのような経緯もあり、球場使用料は大会を主催している高校野球連盟にいっさいに求めていません。

甲子園球場が造られた時代背景

さて、甲子園球場が完成した大正時代はどのような時代だったでしょうか? いくつかの要素から甲子園球場の建設に至った背景を見てみましょう。

第一次世界大戦からの好景気

1914年(大正3年)に勃発した第一次世界大戦は、ヨーロッパ諸国を巻き込んでいきます。日本は日英同盟を理由に連合国側(イギリス・フランスなど)に参戦しました。数年間の戦闘の後に、連合国側の勝利に終わりました。日本は戦場にならなかったので、大戦によるダメージもありませんでした。しかも敗戦国のドイツが持っていた中国の権益を獲得して、政治的にも大きな成果がありました。

さらに、大戦によって大きなダメージを受けていたヨーロッパに代わって、大戦中から世界的な需要に応えるべく、軍需品の輸出が急激に増大します。大戦後もその傾向は継続し、成金も登場します。こうして日本は工業生産国として発展していくことになります。

そのような中で、工業都市大阪を中心とする関西も好景気(大戦景気)の恩恵を受け、経済活動も活発になりました。明治後半より阪神間では鉄道が次々と開通し、大阪のベッドタウンとして人口も増加していきました。これらの鉄道会社の中に阪神電鉄がありました。

阪神電鉄は、住宅地開発とともにリゾート事業も手掛けていきました。その一連の事業の中に甲子園球場の開場もあったのです。

文化が大衆化した時代

大戦の好景気などによって、人々の生活レベルが向上し、娯楽を求めるようになります。このようにして大衆文化が発展しました。その流れの中でスポーツ観戦も盛り上がりを見せるようになります。明治時代から流行っていた大学野球に加えて、前述の通り、1915年(大正4年)に中等学校の野球大会の開催も始まります。

さらに、当時新しく始まったラジオ放送でしたが、1927年に日本初のラジオによるスポーツ中継が行われたのが、中等学校の野球大会でした。

庶民の生活変化によって、野球人気も押し上げられました。そして、このような盛り上がりが甲子園球場建設のきっかけになっていったのです。

関東大震災が発生

1923年9月1日、関東大震災が発生します。死者・行方不明は10万人以上になり、未曾有の災害となりました。神奈川県や東京府(現在の東京都)を中心に甚大な被害が出ました。

関東から遠く離れた関西地域は影響が少なかったことから、引き続き発展していきます。大阪市の人口は東京市を超え200万人以上となり、工業出荷額も日本一になりました。まさに大阪の繁栄期がやって来ます。その反面、急速な工業発展によって大阪の生活環境が悪化しました。

1920~1930年代にかけて、阪神間は大阪と比べて良い住環境であることが注目され、住宅地の開発が促進されていきました。それに合わせて娯楽施設も造られていったのです。

まさに、大阪の繁栄とともに、阪神間にも注目が集まっていた時期に、巨大スポーツ施設である甲子園球場が造られたことは、偶然ではなかったのです。

関東大震災についての詳しい解説は、以下の記事をご覧ください。

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