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【歴史】鎌倉幕府の執権とは? 北条氏との関係は?

学習Q&A 歴史
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北条氏と執権政治

源頼朝が鎌倉幕府を開いてから源氏の天下でしたが、幕府の実権は源氏から北条氏へと移っていきます。そして、源氏の跡を継いだ北条氏は「執権政治」を行います。

執権とは何でしょうか? 

それを理解するために、鎌倉幕府のしくみを図で見てみましょう。

実は鎌倉幕府は一度にしくみが整えられたわけではなくて、1180年以降、徐々に整備されていきました。

侍所(1180年)、問注所(1184年)、守護・地頭(1185年)、政所(1191年)、将軍(1192年)、執権(1203年)、六波羅探題(1121年)というような順番です。

1203年に執権が設置されました。

鎌倉幕府の仕組み

一度に鎌倉幕府がつくられたわけではないので、「鎌倉幕府の成立」つまり「鎌倉時代の始まり」がいつであるかという議論があります。守護・地頭が置かれた1185年とする説や、源頼朝が征夷大将軍についた1192年とする説などがあります。現在教科書などでは、「幕府が1192年に成立した」とか「始まった」と言及していません。

上の図を見てみると、執権は将軍(征夷大将軍)の補佐であることが分かります。将軍の補佐といっても、あらゆる行政職を統括する重要な役目も持っていました。中央行政・地方行政・司法などの上に位置していたので、必然と権力は集まりやすかったでしょう。この役職が後に幕府の流れを左右していくことになります。

執権にはじめてついたのは北条時政です。三代将軍の源実朝のときでした。全体で17代にわたって代々北条氏が、執権につきながら実権を握っていくことになります。

歴代の北条氏の執権は順番に、時政(1203~1205年)、義時(1205~1224年)、泰時(1224~1242年)、経時(1242~1246年)、時頼(1246~1256年)、長時(1256~1264年)、政村(1264~1268年)、時宗(1268~1284年)、貞時(1284~1301年)、師時(1301~1311年)、宗宣(1311~1312年)、煕時(1312~1315年)、基時(1315~1316年)、高時(1316~1326年)、貞顕(1326年)、守時(1326~1333年)、貞将(1333年)となっています。

義時は「承久の乱」、泰時は「御成敗式目」、時宗は「元寇」などで有名です。

北条氏と将軍の関係

さて、執権が実権に握るようになったということですが、将軍はどうなったのでしょうか?

鎌倉幕府が成立当時、実権を握っていたのが源氏でした。初代将軍源頼朝は幕府内で大きな影響力を持っていました。しかし、北条氏の台頭によって執権の方が実質的な影響力を持つようになったのです。

では将軍はどうなってしまったのでしょうか? 源氏の将軍が三代で途絶えて、北条氏が執権政治で表舞台で活躍していた間も将軍はたしかに存在していました。いったいどんな人たちが将軍になっていたのでしょうか?

三代源実朝の後、藤原頼経藤原頼嗣宗尊親王惟康親王久明親王守邦親王といった人物が順次に将軍職に就任しました。将軍だったとはいえ、源頼朝のような有名な人物ではありません。これらはどんな人たちだったのでしょうか?

例えば、藤原頼経は京都の貴族で、貴族の中でも位の高い家柄の出身でした。彼は幕府からの要請によって三代実朝の次の将軍として鎌倉に迎えられました。さらに後に宗尊親王が迎えられます。彼は後嵯峨天皇の皇子という高い立場でした。幕府としては天皇の子どもを将軍につけたことによって、自らの背後に天皇家とのつながりがあることをまわりにアピールできました。このようにして、朝廷の権威を利用して北条氏の地位を高めるのに役立ちました。鎌倉時代になって、政治の主役は武士に変わってきましたが依然として朝廷は権威を持っていたからです。

将軍になった後、幕府の都合に振り回された人生を送った者も少なくなかったようです。中には、幕府に迎えられたのに、幕府にとって都合が悪くなったので都に送り返された者もいました。けっこう不遇な人生を送った者もいました。このような状況の中で、これらの将軍職についた人たちは、北条氏の執権政治の中で、形式的な形とはいえ幕府の職を果たしていくことになります。

将軍を送り出してきた京都と幕府の関係

鎌倉(現在の神奈川県)は、地理的には京都と距離がありました。現在でもさまざま交通機関を使って数時間かかります。決して近い距離ではありません。もちろん鎌倉時代は現在よりもはるかに遠く感じられる距離でした。しかしこの距離が幕府にとって重要でした。この距離のおかげで京都の朝廷からの影響を受けにくかったのです。

鎌倉と京都の距離を示した地図

上の地図を見てください。直線距離でも約350キロほどです。徒歩で移動すれば約10日以上かかったでしょう。鎌倉幕府としては、都との絶妙な距離があったからこそ、自分たちが思うよう武家政治を展開できる一方で、朝廷の権威もうまく利用しながら幕府を強化していったのです。

この絶妙な関係を可能にしたのが、鎌倉と京都の距離だったのです。

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