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【歴史】鎌倉幕府の守護とは?

学習Q&A 歴史
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守護とは?

守護は源頼朝が設置したもので、有力な御家人を国ごとに任命しました。国の治安維持を行ったり、御家人の統制したりしました。

守護という役職は室町幕府でも登場しますが、鎌倉幕府の守護と多少意味合いが異なってきます。

室町時代に入ると、室町幕府の力はそれほど強くなかったので、地方で守護が強化され、大きな経済力を持つようになります。中には守護大名になる者も出てきます。さらに戦国時代には戦国大名となって、各地で活躍するようになります。

このように、守護の仕事の権限は時代とともに変化していきましたが、この記事では鎌倉時代における守護について取り上げます。

守護という語には、「守」と「護」という漢字が使われています。どちらも「まもる」と読みますが、それぞれには微妙なニュアンスの違いがあります。「守」には危険や害が及ばないように、何かを守るという意味があります。「護」には大切なものをまもるという意味があり、より対象への強い責任感や感情があります。

1192年が鎌倉幕府の成立年として知られていましたが、近年では守護も含めて、1180年頃から幕府を構成する組織が徐々に設置されていったことを考えると、1192年は成立時期ではなく、幕府の基本形態が完成した時期と考えることができます。

なぜ設けられたか?

1185年(文治元年)、源頼朝の弟の義経よしつねが平氏を壇ノ浦の戦いで滅ぼすと、今度は幕府に背いたという口実で義経を捕らえるようとしました。どこにいるか分からない義経を捜索したり、それぞれの土地で戦に必要な兵や兵糧ひょうろうを確保する必要が生じます。このために各地にそれらを統括する役職を置くことが必要になったのです。

そこで頼朝は、後白河法皇つまり朝廷の許可を得て、同年11月に国ごとに惣追捕使(守護の前身)が設置され、有力な御家人を任命されました。同時期に地頭も設置されました。

しかし、義経追討は表向きの理由で、本当の理由は、自身の影響力を全国に及ぼすことにあったといわれています。

後白河法皇(1127年~1192年) … 平安時代末期の天皇です。天皇退位後は上皇、さらに出家後は法皇として、30年以上の長きにわたって院政を行いました。当初は平氏と協調関係にありましたが、次第に関係が悪化し、清盛に幽閉されます。しかし、源氏が平氏打倒のために動くと、平氏を追討するための許可(院宣)を与えました。頼朝から「日本第一の大天狗」などと称されましたが、激動の時代を生きた巧みな戦略家であったといえます。

御家人の働きについては、以下の記事をご覧ください。

【歴史】鎌倉幕府 将軍と御家人の主従関係 御恩と奉公とは?
御家人はどのような人々だったのか? 御恩と奉公には何が含まれていたかを解説します。

守護の仕事とは?

当初は義経追討の件からも分かるように、戦時などの緊急事態におけるの臨時の軍指揮官のような役割であったと考えられます。また当初は守護ではなく「惣追捕使(そうついぶし)」と呼ばれました。そしてこの役職は義経が討伐されたことで、目的を達したために一時期は無くなりました。

しかし1191年(建久二年)に、常設の役職である守護として復活しました。そして幕府の影響力が強まるにつれて、次第に守護の仕事は明確化されていました。1232年(貞永元年)の御成敗式目ごせいばいしきもくでは、以下の三箇条が守護の権限として正式に取り決められました。

それは、主に大番催促、謀反人・殺害人逮捕というものでした。これら3つは「大犯三箇条たいぼんさんかじょう)」と呼ばれています。

では、この三箇条などについて、掘り下げてみましょう。

御家人の大番催促
大番とは京都大番役きょうとおおばんやくという役職のことを指します。これは、京都にある皇居、院、摂関家などの警備に当たることが仕事でした。この役職を担うのが御家人でしたが、彼らに任務の割り当てなどを行うという仕事がありました。こうしたことによって、御家人の統制に影響を及ぼすようになりました。

謀反人・殺害人の逮捕
謀反人とは朝廷や幕府に背く行為をした者のことです。また殺害人とは文字通り殺人を犯した者のことです。これらの者を捜査して罪が確定すれば、逮捕することが仕事でした。

上記以外に夜討ようち強盗・山賊・海賊などの取締りも行いました。ちなみに、夜討とは夜間に家などを襲撃して、財産などを奪う行為のことです。

上記の内容から分かるように、守護は現代でいうと軍・警察のような仕事で、社会の治安維持に努めました。

また大犯三箇条のように守護の仕事を明確に制限することによって、守護が必要以上に権限を広げて、各地で力を付けていって、幕府に大きな影響力を及ぼさないようにしたのかもしれません。

国司と守護の関係は?

国司こくしは古代に朝廷によって置かれた役職で、各地に置かれ地方行政全般を担っていました。彼らは中央政府から派遣された役人でした。このようにすでに地方には国司がいたのです。

しかし各地に守護が置かれたということは、国司が権限を及ぼす範囲と重なることを意味していました。つまり幕府と朝廷が地方支配においてぶつかり合う状況が生まれたのです。

ここで、国司と守護の違いについて考えましょう。下の表にまとめてみました。

守 護国 司
どこが任命するか?鎌倉幕府朝廷
どんな仕事をしたか?御家人の統制・治安維持地方行政
(戸籍・土地の管理、税の徴収など)

では、ここで次のような疑問が生じます。

国司と守護はどのような関係だったのかな?

鎌倉幕府成立以前から、地方においては国司が地方行政全般を担っていました。こうした中で国司は名誉ある役職でした。
しかし、鎌倉幕府によって守護が置かれてからは状況が変化します。幕府から守護、朝廷から国司が派遣されて二重支配(建前上は国司を立てていたのかもしれない)となり、地方支配は複雑化していきました。
鎌倉幕府の隆盛によって武家支配が強くなっていくと、守護は権限は強められ、次第に国司の力は弱まっていきます。そして室町時代には形だけの役職となっていきました。

誰が守護職を務めたか?

初期には守護は各地の有力な御家人が務めました。その御家人たちは地頭として特定の土地に根差し、そこで生活の基盤を築きました。つまり守護は地頭である御家人から選ばれたのです。このことから「守護 = 御家人」という図式が生まれます。

それで大抵の場合、守護と地頭は兼任するものでした。守護と地頭は別々の役職のようなイメージがあるかもしれませんが、実は密接な関係があったのです。

鎌倉時代の中盤以降になると、執権の北条氏一門(得宗とくそう)による守護職の独占が進んでいきます。鎌倉初期の1200年頃には北条氏が2国、北条氏以外が36国だったのが、鎌倉末期の1333年には北条氏が38国、北条氏以外が15国と大きく変化しました。

得宗とは … 鎌倉幕府の執権である北条氏の惣領(嫡流ちゃくりゅう)の家系のことです。嫡流とは跡継ぎの血筋という意味です。北条氏の中でも絶大な権力を持っていました。

このように年が進むにつれて、地方においても北条氏が権力を持つようになりました。このことは、北条氏以外の御家人の反発を招くことになりました。こうしたバランスの悪さは、鎌倉幕府の弱体化の一因になりました。

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