ベルリンの壁とは
ベルリンの壁とは、1961年~1989年までの間にベルリン市内の存在した壁のことです。
ベルリンとは … 現在のドイツの首都です。1871年にドイツ帝国が建国されましたが、第二次世界大戦後の冷戦時代に、ドイツが東ドイツと西ドイツに分かれたため、ベルリンも東ベルリンと西ベルリンに分けられました。1990年に東西ドイツが統一されてからは、ベルリンも統一ドイツの首都となっています。人口は約360万人、都市圏も含めると約620万人になります。
東西ドイツの正式名称は、東ドイツは「ドイツ民主共和国」、西ドイツは「ドイツ連邦共和国」です。冷戦でソ連とアメリカが対立していた時代、東ドイツはソ連陣営、西ドイツはアメリカ陣営でした。
ここで、東西ドイツと東西ベルリンの位置を見てみましょう。

この地図から分かるように、ベルリンは東ドイツの中にあることが分かります。
ベルリンの壁は西ドイツ国境にある訳ではありません。
壁の歴史 どこに作られたか?
壁の歴史を通して、「ベルリンの壁」がどこに作られたかを見てみましょう。
大戦終了時のドイツ
ドイツ降伏前の1945年2月のヤルタ会談で、ドイツの連合国4ヶ国(アメリカ・イギリス・フランス・ソ連)による分割統治についての基本方針が決定されました。その後ベルリンも分割統治にされることになりました。
当初は、連合国として将来的にドイツの主権を回復させることが目的だったので、ドイツもベルリンも4ヶ国で協調して管理されることになっていました。
戦後のドイツ
しかしアメリカ軍によって占領された西部と、ソ連軍によって占領された東部では、政治・経済体制(資本主義と社会主義)が全く異なっていたので、次第に対立が鮮明になっていきます。
そのような中、西側連合国が採用した通貨政策に対抗したソ連が、1948年6月25日に突如「ベルリン封鎖」をしました。つまり西ベルリンを完全に閉じ込めたのです。ソ連は西ベルリンへのあらゆる物資の供給を絶って、アメリカが西ベルリンから撤退せざるを得なくなることを狙ったのです。しかし、アメリカ軍を中心に史上最大の空輸作戦が実行されることにより、西ベルリン市民の生活を守り続けました。ちなみに、ソ連はアメリカ軍が東側を通過するときにいくつかの空路に限定して許可しました。

この問題についての交渉が行われ、最終的にソ連が譲歩したことによって、1949年5月に封鎖は解除されます。これ以降、壁が建設される1961年までは往来は自由になりました。
しかし、この出来事によって東西の分断が決定的になりました。
東西ドイツの成立
1949年9月に西ドイツ(ドイツ連邦共和国)が成立すると、10月には東ドイツ(ドイツ民主共和国)も成立しました。これにより、ドイツは2つの国家に完全に分断されました。
1952年5月になると、東西ドイツ国境などが封鎖されます。こうして国家が分断されただけでなく、自由な行動も制限されます。しかしこのときはまだ東西ベルリンに関しては自由に行き来できました。
壁の建設へ
東西ベルリンの行き来ができたため、ベルリン市内では東側から西側への人口流出が続いていました。壁が完成するまでには、毎日多くの人々が東ドイツから脱出していたのです。戦後、東西の経済格差は開く一方だったので、生活のために経済的に苦境であった東側から西側へ移動したいと思うのは必然でした。
1961年6月に、ソ連とアメリカで平和強調を図ろうとして首脳会談が行われましたが、結果は決裂に終わりました。この結果に失望した東ドイツ市民は、自由を求めて西ベルリンに脱出する人々が殺到します。
これらの状況に危機感を抱いた東ドイツは、1961年8月13日午前0時、突然西ベルリンを囲むように国境警備隊に命じて、3mの有刺鉄線などでバリケードを張り巡らせます。こうして東ドイツの人々は自由が奪われました。
それから数日後、今度はコンクリート製の「ベルリンの壁」の建設も開始されて、より強固なものに作り替えられていきます。壁の全長は最終的に約155kmになりました。これによって、東西ベルリンでの通行は完全に不可能となりました。
ベルリン周辺の地図を見てみましょう。全域が次のように分けられました。

ベルリン市全域は東ドイツ領内にあるので、壁は西ベルリンを囲むように作られています。こうして西ベルリンは陸の孤島となりました。東ベルリンはそのままその他の東ドイツ領内に続いているので、隔てるものは何もありませんでした。
壁で隔てられた都市
東ベルリンから経済的に豊かな西ベルリンへ脱出することを望む人々は多くいました。命の危険を冒して壁を越えようとする人々は後を絶ちませんでした。一説によると、約28年間で200人以上が命を奪われたといわれています。
壁の崩壊
1980年代に入って、ソ連や東ヨーロッパに変革の波が押し寄せます。この勢いは東ドイツにも訪れます。1989年夏ごろから、東ドイツ市民は国境を越えて、周辺国へ脱出をし始めていました。さらに東ドイツ国内でもデモが相次ぎ、自由への叫びが各地で上がります。
もはや民衆の勢いを止めることはできなくなった11月9日、当時の東ドイツのスポークスマンが記者会見で、西ドイツへの出国を大幅に緩和するという内容をフライングで発表します。さらにこれが「私の理解では、ただちに」できると口が滑らせてしまいます。実はこれらの内容は東ドイツ政府の意図とは異なるものでした。しかし、これを聞いた民衆が国境や壁に殺到して、一気に壁の崩壊へと繋がりました。
東西ドイツ国境の方はどうなっていたか?
ベルリンの壁とは別に、東西ドイツも国境線(「ドイツ国内国境線」)によって固く閉じられていました。国境線の全長は約1,381kmで、ベルリンの壁と同様に途切れることなく端から端まで続いていました。
特に東ドイツ側では、ベルリンの壁と同様に、国民の逃亡を防ぐために、国境線の手前数百mにはバリケードも設けられ、警備も相当厳重なものでした。
東西ドイツ国民にとっては、ベルリンの壁と国境線は自由の制限されたことを象徴するものだったのです。
西ベルリンと西ドイツはどのように行き来していたのか?
陸の孤島だった西ベルリンは、どうやって外部と行き来していたのですか?
空路以外でも通行が可能でした。
ベルリン封鎖のさいに、飛行機の空輸作戦で乗り切りました。しかし壁が作られた1961年以降の長期間に渡って、西ベルリンは陸の孤島となったのです。航空輸送で運べるものは限界があるので、当然ながら陸上から運ぶ必要もあったはずです。
空路はもちろんですが、高速道路(アウトバーン)、鉄道などで繋がっていました。
例えば、鉄道は「ドイツ領域通過列車」が走っていました。列車はベルリンと西ドイツ領内にある都市を結んでいました。東側から西側へ乗車するためには申請・許可が必要でした。
ベルリン市内を走る地下鉄網についても、西側と東側で路線を分断したり、一部の駅を閉鎖するなどして対応していました。つまり両市民が完全に行き来できないように工夫が取られていました。(例えば、途中に東側の駅を通過する場合、それらの駅は封鎖していました。)
またアウトバーンで通過するさいには、出入国のための検問所がありました。分断前に利用されていたインターチェンジがあっても、勝手に利用できないように閉鎖されていました。
このように交通網としては繋がっていたものの、東側の人々はこれらを通じて容易に出国できないように、どこでも銃などを持った兵士によって、厳重に警備されていました。
いずれにしても、これらの交通網を通って西側に脱出することなどは不可能だったのです。
東西ドイツの関係 … 1972年に結ばれた東西ドイツ基本条約によって、両国は相互に主権国家として承認していました。

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