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【雑学】10月14日は鉄道記念日 日本初の鉄道はどのように開業したのか?

雑学Q&A
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鉄道記念日

鉄道記念日は10月14日です。日本初の鉄道開業を記念して1922年(大正11年)に制定されました。

1872年(明治5年)10月14日、日本で初めての鉄道が新橋・横浜間に開業しました。江戸時代が終わったばかりで、ペリー来航から20年もたっていませんでした。そして明治5年といえば明治維新の真っただ中です。まさに日本の鉄道は、日本の夜明けとともに始まったのです。

この記事では、日本で初めての鉄道が開業するまでの出来事を追ってみたいと思います。

イギリスで本格的に始まった

イギリスでは1825年に世界初の蒸気機関車による鉄道が開業していました。

この鉄道は石炭輸送が目的でした。産業革命によって工業化が目覚ましかった当時のイギリスでは、石炭が大量に消費されるようになっていました。石炭は発明された蒸気機関の燃料として必要だったからです。重くてかさばる石炭の効率的な輸送方法として鉄道が開発されたのです。

さらに1830年には、イギリスのマンチェスター・リバプール間で旅客運転も始まりました。

その後、これらの鉄道事業の成果により、1820年代~1830年代にかけてアメリカ・ドイツ・フランス・ロシアなどの欧米にも広がっていきました。

1863年には早くもロンドンで世界初の地下鉄が開業しています。(ちなみに日本初の地下鉄開業は1927年(昭和2年)です)

日本と鉄道との出会い

1840年代の江戸幕府がオランダから入手した「オランダ風説書」とは別の「別段風説書」に鉄道に関する情報が含まれていました。つまり江戸時代にはすでに鉄道の存在を認識していたのです。

別段風説書とは … アヘン戦争以降、幕府はオランダ風説書とは別に、海外に関するより詳細な情報を得る必要が生じたので提出してもらっていました。当時の海外の貴重な最新情報について知ることができました、

この頃、高知のジョン万次郎(中浜万次郎)は、1841年に漁で遭難して無人島に流れ着きました。その後アメリカの捕鯨船に救助されて渡米します。帰国後、滞在中に鉄道に乗ったことを証言しています。初めて鉄道に乗車した日本人と考えられています。

1853年(嘉永六年)にペリーが黒船で来航します。翌年に再び来航したとき、江戸幕府に蒸気機関車の模型が献上されました。模型でしたが初めて鉄道を目にしたのです。この模型は江戸城でも走らせています。

開国によって外国との関係が始まると、欧米各国は日本での鉄道計画を考えるようになります。これにより江戸幕府への売り込みを図る国も出てきます。

政権が江戸幕府から明治新政府にバトンタッチされると、新政府は外国に建設・経営を委ねるのではなく、自国で鉄道を敷設する方針を取ります。殖産興業を推し進めるためには、国策として鉄道の建設は不可欠であると考えたのです。

ペリー来航については、以下の記事をご覧ください。

【歴史】黒船来航 なぜペリーは日本にやって来たのか?
1853年ペリーは日本の浦賀にやって来ます。いわゆる黒船来航です。江戸幕府がどのように対応したのかについて解説します。

 

開業までの経緯

1869年(明治二年)に政府によって中山道経由で東京・京都間を幹線とする鉄道の敷設が決定されますが、まずは大都市と近郊を結ぶということで、その支線として東京・横浜間の開通を最優先させることになりました。

鉄道事業の中心にあたったのが井上勝でした。彼は1863年(文久三年)からロンドンに渡航し、鉄道に関する知識や技術を学んできます。帰国後責任者となって陣頭指揮にあたります。さらに1870年(明治三年)のイギリス人のエドモンド・モレルという技術者を呼んで、測量から開始されます。

レール軌間つまりゲージに関しては、1,067mmの狭軌(きょうき)を採用しました。これは当時国際的に普及していた1,435mmの標準軌(ひょうじゅんき)より狭い軌間です。そこで狭軌か標準軌するかで検討されました。これについて当時明治政府によって雇われていたモレルの進言もあって、狭軌採用しました。狭軌の方がコストがかかりにくいことや、山間部が多い日本の地形で真っ直ぐに敷きづらいことから、線路幅が狭い方が良いのではないかということが理由でした。

測量・建設と進んでいきましたが、新橋駅・品川駅間は鉄道については、工事の進捗は困難を極めました。そこに関係する兵部省の海軍施設などの抵抗があったからです。そこでやむなく海側に盛り土をして、そこに路線を通すことになしました。これを高輪築堤(たかなわちくてい)といいます。ちなみに横浜付近でも神奈川駅・横浜駅間でも海側に土手を築いて線路を通しました。これを高島築堤といいます。

エドモンド・モレルとは … イギリス人でオーストラリア・ニュージーランドで土木技術者として活動しました。さらに北ボルネオで鉄道建設に携わります。イギリス公使の推薦を受けて、日本の鉄道建設の指導にあたるために1870年に来日します。来日後、政府と話し合いの上レール軌道を狭軌と決めたり、線路の枕木をイギリスの鉄製よりも日本産の木材を使用したりするなど、日本の実情に合わせた提案をしました。こうした提案は鉄道建設の迅速化に貢献しました。しかし以前から患っていた肺疾患により、最初の鉄道開業を目にすることなく1871年に30歳の若さで亡くなります。日本に滞在したのはわずか1年半でしたが、日本の鉄道技術を据えた活躍から「日本の鉄道の恩人」と呼ばれています。

狭軌は、走行が不安定で高速運転に向いていないという弱点もあります。そのため輸送力で劣る狭軌は経済発展の足枷になるという見方もありました。後に軌間を標準軌にするチャンスは何度もありましたが、結局改められることなく現在に至っています。
そのために現在の日本の鉄道は、後に導入された標準軌と混在しています。JR在来線(旧国鉄)などは狭軌を採用しています。それに比べて同じJRでも新幹線では標準軌が採用されています。私鉄各社では関東系は狭軌、関西系は標準軌が多くなっています。

開業を迎える

1872年(明治五年)6月12日、まず品川駅・横浜駅間で仮営業を開始しました。高輪付近の工事に時間がかかっていたために先行開業となったのです。鉄道記念日は10月14日ですが、実はその前から運行していたのです。車両はイギリスから輸入された蒸気機関車が使用されました。

10月11日に開通式を明治天皇御臨席の下で執り行われる予定でしたが、暴風雨の影響で延期されました。

10月14日に延期されていた開通式が行われました。明治天皇らを乗せたお召列車が午前10時に新橋駅を出発して、約29kmの距離を約53分かけて横浜まで走りました。翌日10月15日から本格的な旅客運転がスタートしました。こうして建設決定からわずか3年で完成に至ったのです。

鉄道は新橋駅と横浜駅を結びました。新橋駅は現在の新橋駅の位置ではなく、数百メートル離れた汐留地区にありました。近年の発掘によって、駅遺構が発見され史跡として整備されています。横浜駅も現在の位置ではなく、現在の桜木町の位置にありました。駅の位置は微妙に変わりましたが、路線の大部分は現在の東海道線に引き継がれています。

開業当初から客足は順調で、開業翌年の1873年(明治六年)には、1日平均4,347人だったと記録されています。また利益もしっかりと出ていたようで、これらの成功が鉄道のさらなる普及へと繋がっていきました。

開業時の運賃は、上等が1円12銭5厘、中等が75銭、下等が37銭5厘と設定されていました。現在の物価と比較するのは難しいですが、明治初期ではお米1石(約150kgに相当)が5円強でした。この相場を考慮すると上等は現在で1万円を余裕で超えると考えられ、相当な高額だったといえます。

新橋駅の新旧位置の比較

現在の新橋駅と開業当時の新橋駅の位置の違いを示した地図。

横浜駅の新旧位置の比較

現在の横浜駅と過去の横浜駅の位置の変遷を示した地図。

 

開業以降の展開

最初の鉄道の開通から十数年後の1889年(明治二十二年)には新橋駅・神戸駅間で東海道線が全線開通しました。時間は20時間ほどで、現在の新幹線で3時間弱と比べると長く感じるかもしれませんが、江戸時代は20日ほどかかっていたことを考えると、長足の進歩だったといえます。

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