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【歴史】江戸時代の国学とは? どんな学問なのか?

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国学について

国学は江戸時代の中期以降に出てきた学問の一つです。皇学・和学・古学ともいいますが、「国学」という名称が定着したのは、明治時代以降といわれています。

古代の律令制度下で、諸国に設置された地方学校も「国学」といいます。今回の記事で扱う江戸時代に発展した学問としての国学とは全く別のものです。

戦国の世が過去のものとなりつつあった4代将軍家綱の治世以降は、3代将軍までの武力(武断政治)などではなく、学問などによって社会を形成することが有益であると考えられるようになりました。このことは5代将軍綱吉の文治政治にも表れています。文治政治とは学問によって人々を治めていくことですが、この時代には武力に頼る必要はなくなっていました。このような風潮の中で幕府は学問として儒学(特に朱子学)が重用するようになります。一方で、外国からもたらされた儒学への対抗として国学が台頭します。

儒教・儒学とは … 儒教とは中国の思想家・孔子を元祖とする思想体系のことです。さらに儒教を学問的にとらえたものを儒学といいます。

では国学はどのように定義できるでしょうか?

国学とは、日本に儒教や仏教が伝来する以前の日本固有の文化や精神を、古典を研究することによって明らかにしていこうとする学問です。

言い換えると、外国の影響を受けていない時代の日本本来の姿にせまろうとする学問です。そのための研究対象としては、「古事記」「日本書紀」「万葉集」などの古典があります。

国学というと本居宣長の「古事記伝」が有名ですが、宣長以外にも活躍した人たちがたくさんいます。

どんな学者たちが活躍したのか?

この学問の発展において欠かすことのできない人物を見てみましょう。学問として確立に貢献した国学の三哲国学の四大人(こくがくのしうし・こくがくのしだいじん)についてです。

  • 国学の三哲 … 契沖・賀茂真淵・本居宣長のことです。
  • 国学の四大人 … 国学の発展に寄与した、荷田春満・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤のことで、彼らは子弟関係にありました。(平田篤胤は宣長の没後に門人になったと主張しました)

下河辺長流(1627年~1686年)・契沖(1640年~1701年)

この学問は下河辺長流(しもこうべちゅうりゅう)と契沖(けいちゅう)という真言宗の僧がもとになっています。水戸藩主徳川光圀から長流は万葉集の注釈つまり解説書の作成を依頼されます。長流は志半ばで病で亡くなりますが、親友の契沖が後を継いで「万葉代匠記」を完成させます。この書物の精密性は大変高い評価を得て、国学の源流となりました。

契沖 … 国学の源流をつくった

荷田春満(1669年~1736年)

荷田春満(かだのあずままろ)は京都・伏見稲荷大社の神官でした。生まれた家柄もあって、神道はもちろんのこと、古典や和歌などの様々な学問にも親しんできました。そのような中で契沖の万葉研究にも大きな影響を受けます。彼は契沖の門下に入ります。

後に一大決心をして神官を辞めて江戸に出ます。そこで幕府からの招待を受けて、幕府から古典の調査などを依頼されるようになり、評価をされます。京都に戻った後も「古事記」「日本書紀」などの古典研究に没頭します。古典を批評しながら注釈することによって、復古神道を唱えました。

復古神道とは … 古典研究により、外国からの影響を受けていない古代日本から伝わる神道こそが日本人本来の正しい道であると訴えました。このことによって神道の起源を明らかにしようとしました。

晩年は、京都に国学の学校の設置を8代将軍徳川吉宗にお願いしますが、当時は儒学が幕府学問の中心だったこともあり、実現されることはありませんでした。こうしたことが、後世の幕府に頼らずに独自に国学の体系化を進めて行くきっかけとなりました。

荷田春満 … 国学の基礎をすえた

賀茂真淵(1697年~1769年)

賀茂真淵(かものまぶち)は、遠江国の賀茂神社の神官の家に生まれます。彼は京都に移って、荷田春満から国学を学びます。春満が亡くなった後、本格的に江戸に出て国学や和歌を教えます。さらに将軍吉宗の子にも学問を教える立場にもなります。このことにより世間の評価は高くなり、多くの弟子をかかえることになりました。

彼は万葉集を熱心に研究しました。これまでに行われた注釈を排除し、完成当時の言葉を研究して、万葉仮名を解明しました。このことによって万葉集の本来の姿にせまろうとしました。こうして万葉集に関する著書である「万葉考」「冠辞考」などを完成させます。

後に「国意考」も残しましたが、その著書の中で儒学に対する批判し、日本古来の精神への復古を訴え、古道説を確立しました。

古道説とは … 仏教や儒教などの外国から来た教えを排除した古典に基づく神道のことです。

賀茂真淵 … 国学の体系化

本居宣長(1730年~1801年)

本居宣長(もとおりのりなが)は、伊勢国松坂に生まれます。商売をしていた実家を継ごうとしましたがうまくいかず、医師になります。医師になるさいに教養のひとつとして朱子学などを学びました。このときに「古事記」にも出会い、古典に大きな関心を持つようになります。

医師になった後に医院を開業します。昼間の病院業と並行して夕方以降は古典研究に没頭します。この中で著書にきっかけに賀茂真淵に入門し、国学にのめり込んでいきます。真淵と直接会ったことは一度しかありませんが、このとき真淵より古事記の研究をすすめられます。

それからは、真淵の言葉を思いに留め、医師をしながら数十年にわたって古事記の研究を続けます。こうして晩年にあの有名な「古事記伝」を完成させます。この功績によって、当時日本書紀と比べて評価が低くかった古事記にも陽が当たるようになりました。こうして真淵の古道説をさらに追及して、国学を大成しました。

本居宣長 … 国学を大成する

平田篤胤(1776年~1843年)

秋田藩生まれの平田篤胤(ひらたあつたね)は国学とは無縁の環境で育ちました。二十歳になる頃に脱藩し学問を志して江戸に出ます。江戸では苦労して蘭学などを学びつつ、旗本の奉公人になります。二十五歳で才能を認められて、備中松山藩士平田篤穏の養子となります。

本居宣長の「古事記伝」との運命的な出会いによって国学に目覚めます。この頃宣長はすでに亡くなっていたので、宣長没後に入門するという形を取ります。夢の中で宣長の許可をもらったと主張したのです。彼は独学で国学ののめり込んでいきますが、次第に学問的にとらえるよりも、国学に独自の宗教的・神秘的な思想観を織り交ぜていきます。真淵・宣長が説いてきた古道説から日本古来の純粋な信仰を尊ぶ復古神道に発展させます。

ちなみに彼も医師として一時期開業していたことがあります。医術に関する著書も残しています。

晩年はそれまでの活動や幕府批判をしたことから、幕府に著述の禁止と江戸からの退去を命じられて、失意のうちに亡くなります。しかし死後に篤胤の考えは大きな影響を及ぼします。

平田篤胤 … 復古神道を大成する

後世にどんな影響を与えたか?

篤胤は復古神道を訴えました。彼の日本は神の国で他の国よりも優れているという考えが、江戸時代末期には多くの人々に支持されるようになります。こうして天皇を尊ぶ思想が熟成されていきます。さらに水戸藩で育っていた国学の影響を受けた尊王思想(水戸学)も、国学とともに影響を与えます。

ペリー来航以降の幕末の混乱期になると、それらの尊王論が海外勢力を排除しようとする攘夷の考えと結びついて、尊王攘夷運動に大きな影響を与えます。

明治時代になると、神道が国家神道として国家ぐるみで推し進められていきます。

水戸学とは … 水戸藩で尊王論を核として発展した学問です。前期は2代藩主徳川光圀が始めた「大日本史」の編纂を通して、日本の歴史を見つけ直し、国学を取り入れつつ尊王論が展開されていきます。後期の9代藩主徳川斉昭の時代になると、尊王論と攘夷論が結びついていくようになります。

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