モンゴル帝国とは?
モンゴル帝国は、1206年に、初代皇帝のチンギス・ハンがモンゴル民族を統一して建国した遊牧国家です。その支配地域は中央アジアからヨーロッパにまで至りました。
さらにチンギスの孫で第五代皇帝のフビライ・ハンが、1271年に中国に「元」という王朝をつくります。都は大都(現在の北京)で、中国全土の統一も果たします。


この出来事に関しては、「蒙古襲来(もうこしゅうらい)」以外にもいくつかの読み方があります。特に「元寇(げんこう)」に関しては、江戸時代の徳川光圀が編纂した「大日本史」で初めて使用された呼称で、後代に出てきました。これ以降「元寇」が広まっていきました。
最初の襲来までに
1265年(文永二年)頃までに、フビライ・ハンは、側近より日本に関する情報を耳にします。また、フビライに重用されていたマルコ・ポーロが、日本について興味をそそる情報を紹介していたのかもしれません。
マルコポーロとは … 13世紀にヨーロッパからアジアへ大旅行をしたイタリア・ヴェネツィアの商人です。彼は旅行家として、旅の記録である『東方見聞録』を残していて、当時のヨーロッパにアジアについての情報を伝えました。日本について「黄金の国ジパング」と紹介したことも有名です。
日本に関心を持ったフビライは、早速使節団の派遣を検討します。
1回目の使節
1266年(文永三年)、日本宛の国書を使節団に持たせます。これは高麗人を案内役に使って、高麗軽油で渡そうとしました。しかし、高麗側としては、日本との戦は大きな負担になり、気の進む話ではなかったので、海をに渡ることを何とか思い留まらせることに成功しました。しかしこれにフビライは納得できるはずもなく、確実に実行するように高麗に圧力をかけます。
2回目の使節
1268年(文永五年)、高麗の使節団を通して、フビライの国書が九州の太宰府に到着します。国書を受け取ったのは、鎌倉幕府の八代執権北条時宗でした。しかし、これは外交問題であったために、朝廷(後嵯峨天皇)に国書を渡しました。結果として朝廷はこの国書を無視することにしました。
国書の内容は簡単にいうと、以下のようなものでした。
「高麗もすでに臣下になっている。日本が親しくなろうとしないのは、思うにこの事(元のこれまで)を知らないからであろう。願わくば、通交を通して親しい関係を結んで互いに親睦を深めたい。兵を用いることは誰が好もうか。」
その内容は、友好関係を築きたいと言っておきながらも、場合によっては武力に訴えるというもので、あくまでも自分たちの方が上であることを感じさせる、高圧的なものでした。日本側としては受け入れられるものではありませんでした。
その後もフビライは、何度も使者が送ります。
鎌倉幕府の執権については、以下の記事をご覧ください。

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3回目~5回目の使節
1269年(文永六年)2月は、対馬まで到達しますが、日本側が拒否したために引き返しました。このさい2名の島民を連れ去りました。
同年9月連れ去った島民を送り返すために、再び国書を携えて来ました。しばらくの間、日本に滞在しますが、朝廷が返事することはありませんでした。
1271年(文永八年)、女真からの使いが、モンゴルへの服属を命じる国書を携えてやって来ます。今回は太宰府まで到達しましたが、これ以上進むことは難しく、国書を渡して帰ります。
日本からの初訪問と6回目の使節
1272年(文永九年)1月、今度は日本からの使節が元の大都に送られます。しかし元側は警戒して、フビライに謁見することはかないませんでした。
同年、元の使いとして女真人らがやって来ます。今回は返書を返すことも考えたが、南宋出身の僧の介入もあって実現しませんでした。
このように、フビライは合計6回派遣しましたが、結局は日本と従属的な関係を結ぶことはかないませんでした。話が進まない中で、日本への武力侵攻を本格的に検討します。
文永の役【ぶんえいのえき】
1273年(文永十年)までに、元は南宋や高麗に影響力を及ぼし、日本へ兵力を注力させることが可能となっていました。これに対して幕府は元の襲来を予想して、「異国警固番役(いこくけいごばんやく)」を御家人に任せ、九州方面への警固を強化するようになりました。
異国警固番役とは … 鎌倉幕府が九州の御家人に課した軍役です。元の襲来が予想される博多湾沿岸を、守護の指揮のもとで交代で一定期間警固する役割を担いました。後に九州に限らずに、東国・西国の御家人や、御家人以外にも課されるようになり、幕府にとっても、任された方にとっても、大きな負担となりました。
1274年(文永十一年)、ついに元は当時支配下に置いていた高麗で軍艦と兵を集結させて、日本へ向かいます。元・高麗の連合軍で、25,000人の兵と900隻の艦隊という兵力でした。

10月5日に対馬、14日に壱岐に襲来し、激しい攻撃の末、島民も含めて多くの戦死者を出します。こうした島々の惨状は九州本土にも伝わったため、援軍を博多湾に集結させる必要がありましたが、時間的な余裕がありませんでした。
16~17日に肥前沿岸に襲来した後に、19日にはついに博多湾にまで押し寄せ、20日には上陸作戦を開始します。
上陸後の「赤坂の戦い」では、肥後の御家人・菊池武房の軍勢が、元軍を襲撃して敗走させます。また「鳥飼潟の戦い」でも、肥後の御家人・竹崎季長らが善戦し、元軍を後退させます。さらに各地での抵抗もあって、元軍は船に帰還せざるを得なくなります。
この攻撃で有名なのは、「鉄炮(てつはう)」と呼ばれた謎の武器が使用されたことです。陶器製の容器が爆発すると、中に入っている鉄の破片などが四方八方に吹き飛ぶので、大変厄介なものでした。しかし、結構な重さがあるこの武器を、どのように使用したのかは、未だによく分かっていません。
元軍は勢いがあったものの、翌日には元軍は撤退してしまいます。日本側の勇敢さと粘り強さにより、元軍が戦の継続は不可能と判断させて、撤退を決断させたのかもしれません。
こうして、一夜明けると大船団が全く姿を消していました。また、撤退途上で暴風雨に遭遇したとありますが、台風によるものかは疑問符がついています(ただの強風であった可能性があります)。
元軍撤退の原因となった暴風雨を「神風」によるものだとして、以降神国思想が根付いていきます。
二度目の襲来までに
要求を拒否し続けた日本側は、再び元軍が押し寄せて来ると考えて準備します。
一方実際にフビライも武器や軍船の準備をします。1276年(建治二年)までには、南宋は事実上、元に降伏します。これを機に次なる目標として日本侵攻への準備が整えます。
しかし同時に使節団を派遣することを続けました。
7回目・8回目の使節
1275年(建治元年)2月、フビライはモンゴル人らからなる使節団を派遣します。執権時宗は、使節団を鎌倉に連行して、全員を何と処刑してしまいます。処刑した理由としては、彼らがスパイ活動をしていたためともいわれています。
1279年(弘安二年)、使節団が派遣されますが、再び使節団を博多で処刑します。ちなみに前回の処刑に関しては、元側はこの段階では知らされていませんでした。
元の侵攻計画は進みます。侵攻を思い留まるような意見もありましたが、フビライが聞き入れることはありませんでした。そのような中で、フビライの下に使節団が処刑されるという衝撃的な話が伝わります。フビライは日本侵攻のための司令部を設置し、体制を本格的に整えます。
これに対して幕府も周到に準備します。幕府は異国警固番役を強化し、「元寇防塁(げんこうぼうるい)」なるものを築きます。
元寇防塁 … 元の襲来に備えて羽田湾沿岸に築かれた石造りの防御施設です。総延長は約20kmに及んだといわれています。1276年(建治二年)のかなりの短期間(半年)で築かれました。実際に効果を発揮し、弘安の役の時には、元側は上陸することが不可能でした。現在でも一部が残っています。
弘安の役【こうあんのえき】
1281年(弘安四年)、二度目の元寇は現実のものとなります。元・高麗の14万の兵力と大艦隊が日本に向かいます。今回は高麗方面から東路軍(4万人/船900隻)、南宋方面から江南軍(10万人/船3,500隻)が出発します。このように最初は二手に分かれての行動となりました。

元・高麗軍が、5月21日に対馬、26日に壱岐に姿を現し、島々を攻撃します。
その後博多湾に到着します。しかし東路軍は九州各地の沿岸に20kmにおよぶ防塁のために、上陸を断念し、6月6日に志賀島(しかのしま)に上陸します。「志賀島の戦い」では、元軍は日本側の奇襲によって戦いに敗れます。
このために志賀島から壱岐まで撤退します。29日に日本側が攻撃すると、元軍は敗走し、鷹島(たかしま)へ撤退します。そこで江南軍と合流しますが、日本側が軍船を攻撃します(「鷹島沖海戦」)。
さらに7月30日に台風による暴風雨が北九州を直撃したことによって、海上では元軍の艦隊が大きな被害を受けました。特に江南軍の被害は壊滅的だったといわれています。
その後
幕府としては、財政難の中で、3度目の攻撃の備えなければなりませんでした。日本としては、海外勢力の侵攻を何とか食い止めたものの、鎌倉幕府の弱体化を招きました。さらに1284年(弘安七年)、執権として活躍した時宗は病気のために若くして亡くなります。
元としても、さらなる攻撃(3回目)も考えていたようですが、フビライの死去(1294年)や国内の混乱もあって、実現しませんでした。

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