奈良時代も続いた遷都
飛鳥時代は遷都が相次ぎましたが、奈良時代に入ってもその傾向は続きました。710年に平城京が整備されたことによって、飛鳥時代と比べて遷都の頻度が下がりましたが、それでも数度にわたって遷都が行われました。
特に、聖武天皇は740年から数年間にわたって、恭仁京 → 難波宮 → 紫香楽宮 → 平城京と遷都を繰り返しました。
なぜ聖武天皇は遷都を繰り返しましたか?
仏教への信仰心が篤かった聖武天皇は、飢饉や疫病などの流行による社会不安や藤原広嗣の乱による政治の混乱から逃れるために、国を再興するために平城京を離れたと考えられます。結局は平城京に戻りますが、この期間を「彷徨五年」と呼んでいます。
飛鳥時代の遷都の歴史については、以下の記事をご覧ください。

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奈良時代の都の変遷
奈良時代は、平城京遷都 (710年) ~ 平安京へ遷都される (794年) までの期間を指します。この時代は文字通り現在の奈良県の飛鳥地方を中心に宮や都が置かれました。

※番号は便宜上、宮が置かれた順番に付けたものです。
奈良時代と平安時代 … 奈良時代と平安時代の区切りがどこなのかについては議論があります。この記事では平安京に遷都された794年までとしていますが、長岡京に遷都された784年までとする見方もあります。
奈良時代の天皇系図です。
43代 元明天皇 ⇒ 44代 元正天皇 ⇒ 45代 聖武天皇 ⇒ 46代 孝謙天皇 ⇒ 47代 淳仁天皇 ⇒ 48代 稱徳天皇 ⇒ 49代 光仁天皇 ⇒ 50代 桓武天皇
孝謙天皇と稱徳天皇は同一人物です。孝謙天皇が重祚 (一度退位した天皇が再び天皇に即位すること) して稱徳天皇になりました。
平城京
時 期:710~740年
場 所:現在の奈良県奈良市
読み方:へいじょうきょう
天 皇:43代元明天皇・44代元正天皇・45代聖武天皇
710年、元明天皇によって藤原京から遷都されました。唐・長安を模倣して造営されました。
平城京への遷都計画は藤原不比等によって行われました。大化の改新で活躍した中臣鎌足の息子だった不比等は、文武天皇からの信頼を得て、大宝律令の制定などで実績を残していました。文武天皇は若くして崩御しますが、その母の元明天皇が即位すると、遷都を主導してさらなる権力を手に入れようとしました。さらに飛鳥地方から遠ざかることによって、その地域の豪族たちの影響力を削ぐことも狙いでした。
平城京は規模が東西約4.8km、南北約4.3kmの規模で、中央にはメインストリートである朱雀大路が通っていて、その両側に右京 (西側) と左京 (東側) がありました。さらに左京の丘陵地には外京が置かれていたので、全体的には左右非対称でした。
人口は約10万人だったと推測されています。約20万人だったという説もあります。当時の日本の人口が約600万人だったことを考えると、都を中心に人口が集中していたといえます。
外京があった所は後に市街地が形成され、現在の奈良市の中心地になっています。

なぜ平城京には外京が置かれたのですか?
外京が置かれた理由は分かっていませんが、推測することはできます。外京やその周辺には藤原氏の氏寺・興福寺や東大寺があり、藤原氏を頂点とする貴族と仏教勢力を繋ぐ拠点となっていました。ちなみに平城宮から見た外京側の隣接地には、実力者である藤原不比等の邸宅がありました。
外京は地形的には少し小高い丘で、都全体を見下ろせる場所でした。そのような場所に藤原氏の拠点があったということは、天皇を凌ぐほどであった藤原氏の権威を誇示するという意味があったのかもしれません。
不比等の死後、天武天皇の孫であった長屋王が権力を持ちます。しかし藤原氏によって謀反の疑いがかけられ、追い詰められた長屋王が自らの命を絶ちました (長屋王の変)。
その後、藤原不比等の息子たち (藤原四子) が権力を握ります。しかし四子たちは天然痘のために次々と亡くなってしまいます。この後橘諸兄が藤原氏から実権を奪います。今度は政治の中心から追い出された形の藤原氏が太宰府で反乱を起こします (藤原広嗣の乱)。
天然痘 … 天然痘ウイルスが原因で発病する伝染病の一種です。致死率の高さから、世界中の人々に恐れられていました。735年~738年にかけて西日本を中心に大流行し、政治は混乱しました。1980年にはWHOによって根絶が宣言されています。
恭仁京
時 期:740~743年
場 所:現在の京都府木津川市
読み方:くにきょう
天 皇:45代聖武天皇
藤原広嗣の乱の最中に、聖武天皇は乱を鎮めるために平城京から伊勢へ行幸します。広嗣が処刑されたことを聞くと、平城京に戻らずに恭仁に入り、造営を開始します。
行幸 … 天皇が自身の住まいから外出することです。
こうして740年に聖武天皇によって遷都され、翌年には、平城京のものが解体されて大極殿 (朝廷の正殿) に移築されす。この地が選ばれたのは、天皇の最側近であった橘諸兄の本拠地だったことも理由かもしれません。
この地には木津川が流れていました。川があると物流上有利な場所です。また、三方を山に囲まれた盆地に位置していました。都を置く上では理想的な地でした。
742年、恭仁京から近江・紫香楽に通じる道「恭仁京東北道」が開通し、紫香楽に離宮が建設され始めます。天皇は定期的に離宮に行幸します。恭仁京と紫香楽が一本の道で繋がり、移動しやすくなります。
離宮 … 宮とは別に設けられた一時的に滞在するための施設です。
紫香楽と同時に進められていた事業でしたが、743年に恭仁京の造営事業が中止されます。事業の同時進行によって費用がかさんだことが中止の要因だったかもしれません。
こうして未完成の「幻の都」として短命に終わります。恭仁京の廃都後、宮の跡が寺に造り替えられて、山城国分寺 (廃寺) になります。七重塔がある立派な寺であったと推定されています。
難波宮
時 期:744~745年
場 所:現在の大阪府大阪市
読み方:なにわのみや
天 皇:45代聖武天皇
目まぐるしく状況が変化します。聖武天皇は紫香楽での事業を進めながら、難波宮に遷都します。難波は遷都前から副首都として再整備が進んでいました。
遷都しながらも、聖武天皇は紫香楽宮に戻って大仏造営に集中しました。また難波宮に移転した廷臣は橘諸兄などのわずかであり、ほとんどは恭仁京に残ったままであったと考えられます。
紫香楽宮
時 期:745年
場 所:現在の滋賀県甲賀市信楽
読み方:しがらきのみや
天 皇:45代聖武天皇
難波宮が遷都された後も、紫香楽宮での事業は進んでいました。743年には甲賀寺の建立が始まり、さらには「大仏建立の詔」が出され、行基の指導の下で大仏造りも始まっていました。
このような中で745年の元旦に、紫香楽宮を「新京」と宣言します。こうして難波宮から事実上遷都されます。この頃から「甲賀宮」と表記されるようになります。紫香楽宮はそれまでの開けた平地に造られていた都と異なり、険しい山中に造られた特異な都でした。
大仏といえば、奈良・東大寺の大仏が有名ですが、聖武天皇はこれに先立って近江の紫香楽の地で大仏を造ろうとしていました。
しかし遷都直後に、周辺で山火事が相次ぎます。それに加えて美濃を震源とする大地震も起き、紫香楽も揺れます。相次ぐ災いは天皇の政治に対する罰だと考えられました。
また、これまでの度重なる遷都や険しい山中での紫香楽での事業は人々を疲弊させていました。山火事も実は不満を持った人々の放火であったと考えられます。このまま紫香楽で新京建設を続行すると、さらなる批判を浴びることは避けられないことから、わずか数か月で平城京に都を戻すことを決意します。
廃都に伴って、甲賀寺や大仏造営も中止されたと見られています。大仏については平城京遷都後に東大寺に継承されることになります。現在、宮殿があると推測される場所からは、建物跡が発見されています。
平城京
時 期:745~784年
場 所:現在の奈良県奈良市
読み方:へいじょうきょう
天 皇:45代聖武天皇・46代孝謙天皇・47代淳仁天皇・48代稱徳天皇・49代光仁天皇・50代桓武天皇
聖武天皇によって再び遷都されました。その後自身は上皇となって娘の孝謙天皇に譲位します。この頃は藤原仲麻呂が実権を握っていました。
紫香楽で頓挫した大仏造営は、平城京で再開されることになります。752年には10年ほどの期間を経てついに大仏が完成し、開眼供養会が執り行われます。また、同時期には幾度の失敗を乗り越えて、唐から鑑真も来日しました。
聖武上皇の死後、藤原氏は再び息を吹き返し、勢力を強めていきます。光仁天皇の時代には藤原種継らが実力を持ちます。桓武天皇の時代になって遷都を決意します (理由については後述)。
遷都後の平安時代初期には、都の旧跡地は現状を保つことができず、急速に衰退していきます。この頃にはすでに農村になっていたと考えられます。明治時代に推定域に平城宮跡が発見されます。その後、大正~昭和と調査が進められ、都に関するさまざまなものが発見されています。
平城京には近鉄奈良線が通過しています。大阪電気軌道によって1914年に開通した時には、平城京の範囲についてはある程度推定できていたものの、用地買収に困難を極めたことから、結果として平城京の中を通るようになりました。一時期景観上の観点から、移設が検討されましたが、現状維持されています。
長岡京
時 期:784~794年
場 所:現在の京都府向日市・長岡京市・京都市
読み方:ながおかきょう
天 皇:50代桓武天皇
桓武天皇の勅命によって長岡の地に遷都されます。平城京では、聖武天皇によって仏教の下で政治が行われてきました。このことにより政治と仏教の関係が密接になります。新たに即位した桓武天皇は、そのような流れを変えるために、仏教の都である奈良から距離を置いた長岡の地に遷都します。こうして政治への仏教勢力の影響力を弱めようとしました。
さらにこの地には大きな川が流れているために、物資を運搬しやすいという利点がありました。また秦氏の拠点があったことで、支持を受けやすかったのかもしれません。
長岡京の造営は藤原種継と早良親王に任されましたが、思わぬ事態に進展します。
藤原種継 … 桓武天皇を天皇へと押し上げた藤原百川の甥
早良親王 … 光仁天皇の皇子で、桓武天皇の弟。
785年、藤原種継が暗殺されます。この事件をきっかけに大伴氏ら多くの者が処罰されます (事件直前に亡くなっていた大伴家持も首謀者とされます)。
暗殺事件による騒動が拡大します。早良親王も事件の首謀者として疑いがかけられます。その背景として、親王は藤原氏の勢力拡大を快く思っておらず、親王と種継の関係があまり良くなかったことも関係しているかもしれません。
彼は無実を訴えていましたが廃太子され、捕らえられて、乙訓寺での幽閉中に失意のうちに亡くなります。結局、親王が事件に関わっていたのかは今でも謎のままです。
その後、桓武天皇のまわりで不穏な出来事が起こります。身近な人々が次々と亡くなったのです。このことを早良親王の怨霊による災いだと感じた桓武天皇は怨霊から逃れるために、遷都を決意したといわれています。
さらに度重なる洪水にも悩まされます。こうした複合的な要因を受けて、和気清麻呂の助言を受け入れて、平安京への遷都を決意します。
長岡京は11年間しか続きませんでしたが、平城京や平安京と同規模の都であったと考えられます。東西に約4.3km、南北に約5.3kmありました。都の各住戸には井戸が設置されていて、水が豊富にありました。


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