次々と起こなわれた遷都
日本では平安京は千年以上の長きにわたって都でしたが、平安京に至るまでは短期間で遷都を繰り返しました。特に古代の飛鳥時代は頻繁に行われました。
平安京以後の遷都 … 794年 (延暦13年) に平安京が遷都された後は、1868年に東京に遷都されるまで都でした。ただし、1180年 (治承4年) に平清盛が福原京 (現在の兵庫県神戸市) に半年ほど都を置いたことがあります。
なぜ古代の日本では「遷都」が繰り返されたのですか?
飛鳥時代の遷都に関しては、都市全体と政治の中心が丸ごと移転するという意味ではなく、天皇の住まいかつ政治の場 (宮殿) が移動することを意味していました。このために、都市を一から造り直す必要はなかったので、代替わりごとに移動しやすかったといえます。そのために国内外のさまざまな出来事があるたびに移動しました。またこの時代は、建物の耐久性が無かったことや火災が頻発したことも要因となりました。さらに、天皇の崩御という穢れを清めるために新たな土地でやり直しをしたという説もあります。
飛鳥時代の都の変遷
飛鳥時代は、推古天皇即位 (592年) ~ 平城京へ遷都される (710年) までの期間を指します。この時代は文字通り現在の奈良県の飛鳥地方を中心に宮や都が置かれました。
藤原京以前に関しては、都というよりも天皇の住まい (宮・宮殿) を「都」としているだけで、本格的な街路が整備された都としては、藤原京が初になります。
岡本宮、飛鳥板蓋宮、飛鳥浄御原宮は、同一の場所に宮が造営されたと考えられています。現在は「飛鳥宮跡」となして遺構の調査が行われています。

※番号は便宜上、宮が置かれた順番に付けたものです。
飛鳥時代の天皇系図です。
33代 推古天皇 ⇒ 34代 舒明天皇 ⇒ 35代 皇極天皇 ⇒ 36代 孝徳天皇 ⇒ 37代 斉明天皇 ⇒ 38代 天智天皇 ⇒ 39代 弘文天皇 ⇒ 40代 天武天皇 ⇒ 41代 持統天皇 ⇒ 42代 文武天皇 ⇒ 43代 元明天皇
皇極天皇と斉明天皇は同一人物です。皇極天皇が重祚 (一度退位した天皇が再び天皇に即位すること) して斉明天皇になりました。
豊浦宮
時 期:592~603年
場 所:現在の奈良県高市郡明日香村豊浦
読み方:とゆらのみや
天 皇:33代推古天皇
593年にこの地で推古天皇が即位します。これ以降歴代の天皇は飛鳥地方に宮を構えることが多くなります。こうして飛鳥時代が始まりました。
その後、宮殿の拡大の必要にせまられて、小墾田に宮を移します。その後推古天皇によってこの地には豊浦寺が建立されました。現在は向原寺があり、境内には豊浦宮や寺の遺構が残っています。
小墾田宮
時 期:603~630年
場 所:現在の奈良県高市郡明日香村雷丘周辺
読み方:おはりだのみや
天 皇:33代推古天皇
推古天皇は新しい宮として小墾田宮を造営します。この頃は遣隋使が定期的に派遣されており、この宮で隋からの使節を迎えられました。海外に対しても威厳を見せるための施設が整えられました。
この宮で、推古天皇のもとで蘇我氏と聖徳太子を中心として、冠位十二階の制定 (603年)、十七条の憲法の制定 (604年) などの歴史的な重要政策が実行されていきました。推古天皇が崩御するまで使われました。
聖徳太子は小墾田宮とは別の場所に住みました。605年、聖徳太子は小墾田宮から10kmほど離れた斑鳩 (現在の奈良県生駒郡斑鳩町) に「斑鳩宮」を造営して、そこに移住します。太子は小墾田宮と斑鳩宮を毎日のように馬で通っていました。斑鳩宮の近くには法隆寺なども建立されました。
飛鳥岡本宮(前期)
時 期:630~636年
場 所:現在の奈良県高市郡明日香村
読み方:あすかおかもとのみや
天 皇:34代舒明天皇
舒明天皇が飛鳥岡に設置した宮です。629年に即位した舒明天皇は翌年この地に宮を移します。6年後の636年に火災が発生し焼失します。
田中宮
時 期:636~640年
場 所:現在の奈良県橿原市
読み方:たなかのみや
天 皇:34代舒明天皇
岡本宮が焼失したことに伴い、舒明天皇は一時的な宮として設置しました。
百済宮
時 期:640~642年
場 所:現在の奈良県桜井市など
読み方:たなかのみや
天 皇:34代舒明天皇
舒明天皇は田中宮からこの地に宮を移しますが、付近には百済大寺も同時に建立されました。大寺は吉備池廃寺のことと推定されています。大寺は同時代の寺院をはるかに凌ぐ規模であったと推定されます。日本書紀によると、九重塔を備えた大規模な伽藍を持っていたと記録されています。
宮を移した翌年に、舒明天皇は崩御します。宮に関してはある程度の位置は推定されていますが、遺構は発見されていません。
小墾田宮
時 期:642~643年
場 所:現在の奈良県高市郡明日香村雷丘周辺
読み方:おはりだのみや
天 皇:35代皇極天皇
皇極天皇が即位すると、再びこの地に宮が置かれました。しかし翌年飛鳥板蓋宮へと移ります。
飛鳥板蓋宮
時 期:643~645年
場 所:現在の奈良県高市郡明日香村
読み方:あすかいたぶきのみや
天 皇:35代皇極天皇
皇極天皇はかつての岡本宮の跡地に新しい宮を造営します。当時は宮殿の屋根が珍しい板葺きであったために「板蓋宮」と呼ばれました。 (当時は大陸から伝来していた瓦葺きは寺院などに限られていました)
645年に乙巳の変が起こります。それまでに絶大な権力を誇っていた蘇我入鹿が、中大兄皇子と中臣鎌足らによって暗殺されます。この宮こそがクーデター事件の舞台となりました。
新たに即位した孝徳天皇は、難波に宮を移します。後年、宮は火災で焼失しています。
難波宮(難波長柄豊碕宮)
時 期:645~655年
場 所:現在の大阪府大阪市中央区
読み方:なにわのみや
天 皇:36代孝徳天皇・37代斉明天皇
孝徳天皇の時代に設置された宮です。「難波長柄豊碕宮」ともいいます。難波は「なんば」とも読みますが、宮殿名としては通常「なにわ」と読みます。
乙巳の変の後、皇太子になった中大兄皇子らによって造営が計画されました。これまでの宮と比べても規模の大きなものとなりました。この地で大化の改新による政治改革が断行されました。新たな政治の中心地とするために、立派な宮を造ることで、天皇としての権威を示そうとしたのかもしれません。
孝徳天皇は中大兄皇子と仲違いした後に崩御しますが、その後に即位した斉明天皇によって飛鳥地方に戻されます。
683年には天武天皇により複都制とされ、飛鳥とともに難波も都とされました。しかし、686年には火災で焼け落ち、数十年後に再建されます。
天平年間の744年、聖武天皇によってこの地に再び宮が築かれ、ほんの短期間ですが都が戻ってきた時期があります。
このことから焼失前の飛鳥時代の難波宮を「前期難波宮」、奈良時代の難波宮を「後期難波宮」と区別することがあります。
飛鳥板蓋宮
時 期:655年
場 所:現在の奈良県高市郡明日香村
読み方:あすかいたぶきのみや
天 皇:37代斉明天皇
孝徳天皇の崩御後、皇極天皇はこの宮で重祚 (再び即位) し斉明天皇となりました。政治の実権は皇太子の中大兄皇子が執りましたが、すぐに火災で焼失してしまいます。
飛鳥川原宮
時 期:655~656年
場 所:現在の奈良県高市郡明日香村
読み方:あすかかわらのみや
天 皇:37代斉明天皇
斉明天皇の時代に設置された一時的な宮です。板蓋宮が火災に遭って焼失したためにこの地に移ったと考えられています。翌年建て直されて岡本宮 (板蓋宮と同じ地) に移りました。
宮の跡地には川原寺 (現在は廃寺) が建立されました。川原寺は飛鳥の四大寺に数えられましたが、これも鎌倉時代に焼失します。現在この地には弘福寺があります。
飛鳥岡本宮(後期)
時 期:656~661年
場 所:現在の奈良県高市郡明日香村
読み方:あすかおかもとのみや
天 皇:37代斉明天皇
斉明天皇の時代に設置された宮です。川原宮に移ると同時に並行して新しい宮殿を建てられていましたが、同年またもや火災に遭って焼失しました。
飛鳥宮では火災が相次いでいましたが、放火されたことが多かったのではないかといわれています。過酷な土木工事に動員されたことに対して、民衆の不満が背景にあったと考えられます。
難波宮(難波長柄豊碕宮)
時 期:661~667年
場 所:現在の大阪府大阪市中央区
読み方:なにわのみや
天 皇:37代斉明天皇
660年に日本と親交があった百済が唐と新羅によって滅ぼされます。日本が百済を援助するために武器や船舶を作るために難波に移し、唐・新羅との戦いに備えます。
朝倉橘広庭宮
時 期:661年(一時的)
場 所:現在の福岡県朝倉市など
読み方:あさくらのたちばなのひろにわのみや
天 皇:37代斉明天皇
斉明天皇は難波から一時的に宮を西へ移し、ここに軍の本営機能を置きます。百済復興のための戦いに対応できるようにするために、半島や大陸に近い北九州の地を選びました。しかし、天皇はこの地に移ってわずか数か月で崩御します。
宮の建設に際して朝倉社の木を切ったために、神様が怒って宮殿が壊されたり、病気による死者が続出したりしたという伝説が残っています。
宮があった場所は現在の福岡県朝倉市と推定されています。考古学的な証拠は一切見つかっておらず、正式な場所は判明していないので「幻の都」とも称されます。
近江大津宮
時 期:667~672年
場 所:現在の滋賀県大津市
読み方:おうみおおつのみや
天 皇:38代天智天皇・39代弘文天皇
663年の白村江の戦いで日本・百済は唐・新羅に大敗することによって、今度はいつ日本が攻められるか分からない緊張状態が生じます。そのような中、中大兄皇子が天智天皇となり、この地を都として選びます。
琵琶湖のほとりは日本海や瀬戸内海からの水軍に攻められにくく、比叡山によって守られていて、湖を使って船で逃げやすいという利点がありました。戦略上最善の場所であったといえます。結局、唐・新羅が攻めて来ることはなく、この地に宮を置く理由がなくなります。
天智天皇は日本で最初の法体系である近江令を制定します。こうして律令国家の基礎を据え始めます。しかし671年に志半ばで崩御します。
672年、今度は国内が乱れます。天智天皇の跡継ぎ争いから発展した壬申の乱によって、大友皇子側が敗れ、大津の朝廷機能が崩壊します。一方で、勝者である天武天皇が飛鳥宮で即位することに伴って、宮は戦火で焼失しました。その結果、この地が放棄されることによって、近江大津宮は短命に終わります。
壬申の乱 … 天智天皇が崩御した後、天智天皇の弟・大海人皇子と天智天皇の子・大友皇子が皇位継承をめぐって争い、大海人皇子が勝利しました。
飛鳥浄御原宮
時 期:672~694年
場 所:現在の奈良県高市郡明日香村
読み方:あすかきよみはらのみや
天 皇:40代天武天皇・41代持統天皇
壬申の乱の翌年、大海人皇子は飛鳥地方に戻って、飛鳥浄御原宮で天武天皇として即位します。かつての飛鳥宮の宮殿を再利用しながら増設もしました。
682年には飛鳥浄御原令の制定に着手します。持統天皇に引き継がれた後に施行されますが、近江令に次いで、本格的な法体系が整備されます。壬申の乱後、再び国内が乱れないような中央集権国家を目指すようになります。
天武天皇は、さらなる新しい都の構想を描いていました。前例のない都市機能を備えた都を造ることによって、代替わりごとに都を移す慣習を終わらせようと考えていました。しかし志半ばで686年に崩御します。
その後、妻の持統天皇が即位し、しばらくの間はこの地で政治が行いますが、690年から新しい都の造営が始まります。
藤原京
時 期:694~710年
場 所:現在の奈良県橿原市
読み方:ふじわらきょう
天 皇:41代持統天皇・42代文武天皇・43代元明天皇
持統天皇により遷都されました。日本で初めて唐 (中国) に倣った条坊制が取り入れられた本格的な都となりました。数年の造営工事を経て694年に完成します。天武天皇が立てた計画は持統天皇に引き継がれていました。
条坊制 … 南北方向の中央に朱雀大路という大通りを配置して、南北の通り (坊) と東西の通り (条) を整然とした碁盤の目の形に組み合わせた正方形に近い都市の形です。
この都で、701年の大宝律令が制定されました。
藤原京の規模 … 短命だったので小さかったと誤解されますが、後代に完成した平城京や平安京よりも規模が大きかったといわれています。1990年代の遺跡調査で、約25km2に及ぶことが判明し、古代最大の都であることが明らかになりました。
708年に元明天皇が遷都が決定し、710年に平城京に遷都されます。前例に無いほどの規模を誇りながら、わずか16年の短命に終わりました。しかも遷都のさい、建物は解体され、利用できるものは平城京へ運ばれ、都は消失したという記録があります。
なぜこれほど早くに藤原京が遷都されたのかははっきり分かっていません。大宝律令によって権力を掌握した藤原不比等が、藤原氏の勢力を伸ばすために新たな都の建設を進めたのかもしれません。その他にも水はけが悪い土地だったということもありますが、複合的な要因が絡み合っているのかもしれません。
藤原京が遷都されることによって飛鳥時代が終わりを告げます。


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