概要
マンハッタン計画 (「Manhattan Project」) とは、第二次世界大戦中にアメリカが極秘裏に行った原子爆弾の開発計画のことです。1945年8月、日本の広島と長崎への原爆投下という最悪の結果に至りました。
第二次世界大戦と日本 … 日本は1941年12月8日のマレー作戦と真珠湾攻撃によって、アメリカ・イギリスなどの連合国との戦争 (太平洋戦争) へと発展しました。
なぜ「マンハッタン計画」と名付けられたのですか?
最初の計画管理のための事務所が1942年6月に設置されましたが、それがニューヨークにあるアメリカ陸軍のマンハッタン工兵管区だったからです。開発拠点はロスアラモスやオークリッジなどの全米に展開していきますが、名称自体は「マンハッタン」が残りました。
開発の経緯
核分裂の理論が確立してから、原爆投下までわずか7年ほどしかありませんでした。この間、さまざまな要因が重なって、マンハッタン計画へと進展していきます。
理論の確立
1938年12月、ドイツの化学研究所の化学者オットー・ハーンとフリッツ・シュトラスマンが、中性子を照射したウランから、大幅に軽い元素であるバリウムが生成されたことを発見します。ウランの原子核が複数のウランよりも小さい原子核に分かれたことを発見したものの、何が起きているかが分かりませんでした。
原子で一体何が起こっているのかを確認するために、元同僚で物理学者のリーゼ・マイトナーに、「何が起きているのか意見を聞きたい」と手紙で書き送っています。これに対してマイトナーは甥のオットー・ロベルト・フリッシュとともに、原子核に分裂が起きたことの根拠を物理的に示し、その崩壊に伴うエネルギーも計算しました。フリッシュは細胞分裂になぞらえて、この現象に「核分裂」と名付けました。
このときに生じる莫大なエネルギーを利用すれば、どんな爆弾の威力もはるかに上回る破壊力を持つ原子爆弾に応用できることが分かりました。
ハーンとマイトナーの関係 … ハーンとマイトナーは数十年にわたって共同で研究を行ってきましたが、第二次世界大戦にともなって、オーストラア出身のマイトナーがナチスによる迫害を避けるためにスウェーデンに移動しました。1944年にハーンはノーベル化学賞を受賞しますが、ナチスの圧力により、マイトナーを共同研究者から外したために、マイトナーは理論形成で貢献したものの受賞の逃します。現在では、ハーンが核分裂の発見者、マイトナーは概念を確立した人とされています。
一通の手紙が転機となる
1939年のドイツからアメリカに亡命していた物理学者アルベルト・アインシュタインは、物理学者のレオ・シラードから依頼され、自身の署名が付された手紙をアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領に送ります。これを受けて政府は開発の検討に入りますが、もう少し時間を要します。
シラード … ハンガリー出身のユダヤ系物理学者です。アインシュタインと同様にナチスの迫害を受けてアメリカへ亡命していました。
ルーズベルト … 第32代大統領です。他にも「ローズベルト」「ローズヴェルト」と表記されることがあります。この記事では「ルーズベルト」で統一しています。
なぜシラードはアインシュタインに手紙の作成を依頼しましたか?
ユダヤ系であったアインシュタインとシラードは、ナチスが権力を掌握していたドイツからの迫害を逃れるためにアメリカにいました。シラードはナチス指導の下で新型爆弾 (原爆) の開発が先行することを恐れていました。
アメリカ政府にドイツへの警戒と研究の支援のために、アインシュタインの影響力や知名度を利用すれば、政府が真剣に検討してくれるのではないかという期待があったのかもしれません。
この後、アインシュタインは原爆開発と関わったのですか?
この後、研究に直接関わることはありませんでした。原爆開発に関わったのは大統領に2通の手紙を送ったことだけです。アインシュタインは政治的姿勢や信念からマンハッタン計画への関与は避けました。
ちなみに彼の代名詞である、1905年に発表された特殊相対性理論の「質量とエネルギーの等価性」を表す「E=mc2」という式は、質量とエネルギーは等価で交換可能であることを導き出しました。
この式は質量が完全にエネルギーに変換されると、莫大なエネルギーが放出されることを示していました。もちろん、この理論は武器を作ることを前提にしたものではありませんでしたが、後の核開発に影響を与えました。
1940年、カリフォルニア大学で行われた核分裂研究の一環で、グレン・シーボークらによって、新たな人工的な元素であるプルトニウム (Pu) が生成されました。しかし発見当初は、プルトニウムが原爆の材料になる可能性を持っていたことから、その存在が公開されることはありませんでした。
アインシュタインの手紙の後も、すぐにアメリカ政府主導による本格的な核兵器の開発は活発化したわけではありませんでした。1941年夏ごろの段階では、話はほとんど進んでいませんでした。
しかし1941年10月、アメリカ政府は、イギリスからウラン濃縮とそれによってウラン爆弾の開発が技術的に可能であるとの報告を受け取ります。このことは原爆開発へと一歩前へ進む転機となりました。ちょうどこのタイミングで日本との開戦が現実味を帯びてきました。
日本との開戦が契機に
1941年の真珠湾攻撃によって日本との戦争が始まったことは、開発を推し進める要因の一つとなりました。攻撃後にアメリカ政府は核兵器開発を優先事項とし、資金や人員を大量に投入するようになります。これにより、その後の計画は予想以上のスピードで進展していくことになります。
1942年8月、ルーズベルト大統領は極秘の原子爆弾製造を決定し、マンハッタン計画が正式に始動します。
計画は一拠点で集中して行われたのではなく、全米各地に分散して行われます。テネシー州オークリッジではプルトニウム研究が、ワシントン州ハンフォードではウラン濃縮とプルトニウム製造が行われました。また、カリフォルニア州サンタモニカやイリノイ州シカゴでも補助的な研究が行われました。これらの複数の箇所が連携しながら、壮大な計画が押し進められました。
計画拠点の設立
1943年には、ニューメキシコ州にロスアラモス研究所が設立され、複数の研究施設や工場も整備され、物理学者のロバート・オッペンハイマーが研究所の初代所長に就任しました。ここを主要な拠点として、国家の最高機密としてウランやプルトニウムの研究と生産が進められました。
オッペンハイマー … 原子爆弾開発において主導的な役割を果たしたことから、「原爆の父」と呼ばれています。
またこの計画には、ユダヤ系などのヨーロッパから亡命していた専門家も参加します。優秀な人材が集まってことによって、計画は順調に前進しました。
1944年に入ると、マンハッタン計画は政府主導で組織化され、科学者、技術者、軍関係者が一丸となって取り組んでいきます。さらに翌年には日本に対する使用を決定します。これに合わせて核爆発の実験に向けた準備も進められます。
ウラン型原爆
ウラン235 → ウラン濃縮 → 実験はせず → 広島への原爆「リトルボーイ」に使用
ウラン238に比べて、核分裂しやすいウラン235は自然界に約0.7%しか存在しないので、濃縮と呼ばれる工程によって、ウラン全体に対するウラン235の割合を高める必要があります。
プルトニウム型原爆
ウラン235 → 原子炉 → 再処理 → プルトニウム → トリニティ実験の成功 → 長崎への原爆「ファットマン」に使用
史上初の核実験
1945年3月、シラードは再びアインシュタインを通じて手紙を書きます。この時点ではすでにナチス・ドイツの原爆開発は頓挫しており、当初アインシュタインらが抱いていた懸念は払拭されていました。一方で枢軸国では日本だけが戦争を継続しており、このまま計画が遂行されれば、原爆が日本に対して使用されることは確実でした。
シラードが当初持っていた原爆開発の動機とはかけ離れた現状に、自らの原爆の実戦使用に反対する意思を手紙にしたためました。しかしルーズベルト大統領が4月に急死したことに伴い、この手紙が読まれることはありませんでした。
1945年7月16日、ニューメキシコ州の砂漠にあるトリニティ実験場でプルトニウム型原爆「ガジェット」の実験が行われ、人類史上初の核実験が成功しました。こうして核兵器はいよいよ実用段階に入りました。
爆発の瞬間、色鮮やかな明るい光が起き、その直後にオレンジ色の火球が広がります。火球が消えると大気圏を凌ぐほどの巨大な高さ3km以上のキノコ雲が発生しました。爆発規模は物理学者が想定していたよりもはるかに大きなものでした。
また、爆発直後に音速よりも速いスピードで広がった爆風は、100マイル (160km) 離れた地点でも感じるほどでした。無人の場所で行われたので、公式には人的被害がなかったといわれていますが、後年になって周辺住民が健康被害を訴えるようになりました。
トルーマンの決断
1945年7月、ドイツのポツダムでの会談中に実験成功の報告を受けます。これを受けて25日にはついに日本への原爆投下の命令を発します。
26日には日本への無条件降伏を求めるポツダム宣言を発表します。ポツダム宣言は降伏条件の内容から考えて、日本が受け入れられる条件ではありませんでした。仮に降伏してしまうと原爆は必要でなくなります。そのためにアメリカは日本が降伏を受け入れにくくする狙いがあったかもしれません。さらにアメリカ主導で戦争に勝利し、ソ連に対して有利な立場を得るためにも、原爆投下は必要と考えたのかもしれません。
1945年8月6日にウランを用いた原爆「リトルボーイ」は広島で、8月9日にプルトニウムを用いた原爆「ファットマン」が長崎に使われました。このように実験成功からわずか数週間後に、トルーマン大統領は日本に原爆を投下することを決定し実行されます。
ドイツの原爆開発はどうなったのか?
1938年の核分裂の発見により、ドイツでは翌年4月から核開発研究が開始されます。この計画は「ウラン・プロジェクト」と呼ばれ、ドイツ国防軍兵器局の下で実験が行われます。しかしこれらの計画に対してヒトラーなどの指導者層はあまり関心を示さず、資金援助も期待できませんでした。
この状況で研究者たちは新兵器が開発されない限り、戦争に勝つ可能性はないと考えて、プロジェクトの必要性について政府に訴えます。しかしこれに対してヒトラーの反応はいまいちで、「すでに別機関が行っている」というあいまいな返答があっただけで、表面上は興味を示しませんでした。この別機関が行なっているという事実は確認できたわけではなく、話を適当に流すだけのヒトラーの嘘だったのかもしれません。
1943年に入ると戦況は悪化し、即実戦に投入できる武器以外に時間や資金を供給する余裕はないということで、コストがかかる核兵器開発は事実上の中止に追い込まれます。
アインシュタインの手紙でも言及されていたドイツの核兵器開発は、アメリカの原爆開発を早めさせるきっかけになりましたが、実際には実用化にはほど遠い状況であったことになります。
原爆に関わった人たちのその後
ハーン
1944年にノーベル賞を受賞しましたが、翌年の原爆投下にはショックを受けて落ち込みます。戦後、自身の発見が核兵器を生み出したことから、反核兵器のための運動を推進します。母国西ドイツの核武装に関しても反対の声明を出しています。また、核保有国を増やさないためにも、核実験の停止や核兵器に関する情報の非公開化も訴え続けました。
ちなみに、彼の名前に由来するハーニウムは正式に採用されることなく、元素番号105番にドブニウムが正式に採用されます。この点はマイトナーとは対照的な結果となりました。
マイトナー
戦時中、彼女はマンハッタン計画やイギリスで核兵器開発への協力を求められますが、固辞しています。原爆が投下されたことにはショックを受けますが、その経歴から突然人々の注目を浴びて「原爆の母」と呼ばれます。しかし、開発の経緯については何も知らなかったために、「 (原爆開発には) 関わっていない」と語っています。
1944年のノーベル賞の受賞は逃したものの、後年、かわりに彼女の名前をちなんだ元素番号109番をマイトネリウムと命名し、その功績を讃えています。
トルーマン大統領
ルーズベルトが1945年4月に急死したことより、副大統領から大統領に昇格します。就任間もなく原爆投下という重大な決断を下します。このことについて、決断そのものは人間が下した最も恐ろしい決断であることを認めています。それは女性や子ども、非戦闘員を抹殺することになったからです。それでも、アメリカ兵数十万人の命は、日本の都市2つ分に値するものであったと述べて、原爆投下の必要性を訴えました。
オッペンハイマー
投下直後、オッペンハイマーは、「原爆の使用は、日本との戦争を短縮するのを助ける可能性がある」と述べて、原爆使用を正当化しています。しかし戦後1945年10月に、トルーマン大統領と面会したとき、「私は自分の手が血塗られているように感じる」と語り、大統領の怒りを買いました。
その後も原子力の専門家として活動しますが、原子爆弾については国際管理を主張します。これは一国だけで管理してしまうと、各国間で原爆開発競争が起きてしまうことを危惧したからでした。結局国際管理は実現せずに、結果としてオッペンハイマーが恐れた通りになりました。
後年、広島の被爆者と面会する機会がありました。この中で涙を流し、謝罪の言葉を繰り返していたということです。
アインシュタイン
日本への原爆投下について聞かされたとき、ショックを受けたといわれています。また、「ドイツが開発の成功しないと知っていたら、何かをすることはなかった」とも語って、後悔の念を示しています。1955年にアインシュタインは亡くなりますが、晩年彼は、「大きな間違いをしてしまった。それは大統領に原子爆弾を作ることを勧めた手紙の署名したことだ」と語っています。


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