概要
遣唐使とは、遣隋使が派遣された後の7~9世紀にかけて、日本が中国の唐に派遣した公的な外交使節のことです。このことにより、中国の先進的な制度や文化などが日本に取り入れられました。
唐はどのような王朝でしたか?
唐は618年~907年に存在した中国の王朝です。李淵が隋を滅ぼして成立し、7世紀から8世紀にかけて中国を支配した大帝国となりました。特に、2代皇帝「太宗」や9代皇帝「玄宗」のときに栄えました。
遣唐使は朝貢形式で行われました。「朝貢」とは周辺国の使節などが唐に派遣されて、唐を宗主国(上位の国家)として、服属のしるしとして唐の皇帝に貢ぎ物をささげることです。
これと似たような言葉として「冊封」があります。これは唐が朝貢関係にある国の支配者に対して、何らかの爵位を与えたり土地の支配を許したりすることです。日本は遣隋使と遣唐使を通して、朝貢を行ってきましたが、中国の皇帝からそのようなものが与えられたとの記録はありません。以上のことから、日本は中国に対して朝貢はしていたが、冊封は受けていなかったと考えることができます。
遣唐使の目的は何でしたか?
唐へ貢ぎ物を贈るかわりに、唐の政治制度、文化、仏教などを輸入することでした。また、一時期、朝鮮半島をめぐって唐との関係が緊張状態になったこともあるため、関係を改善するために行われたかもしれません。
遣唐使は何回派遣されましたか?
派遣回数に関しては、12回、13回、15回、18回、19回、20回とさまざまな説が混在しています。なぜこんなに複数の説があるかというと、専門家によって回数の数え方に違いがあるからです。例えば、遣唐使の準備が整ったものの派遣が実現しなかったり、朝鮮半島までで唐に到達しなかったり、唐の使いを送ったりしたものを回数として数えるかどうかという点で議論があるからです。
遣唐使とは?
初めての遣唐使が派遣されたのは630年です。犬上御田鍬が大使として選ばれました。これまでに犬上は最後の遣隋使として隋に渡っていて、615年に帰国していました。犬上は「冠位十二階」の中で上位の立場を得ていたことから、遣隋使派遣以前から大和政権の中で有力者であったと考えられます。しかし、はるばる遠方からやって来た犬上らに対して配慮し、毎年来なくてもよいとする寛大な措置が取られました。
犬上御田鍬 … 小野妹子と同じ近江の豪族で、日本武尊の子である稲依別王の子孫とされています。ちなみに、普通は漢字の「鍬」は「くわ」、「鋤」が「すき」と読みますが、まれな例として「鍬」を「すき」と読むことがあります。
遣唐使は一度の派遣で、数百人ほどが通常は4隻の木造船に分かれて乗船して中国へ向かいましたが、この船団は「四つの船」と呼ばれています。多いときで500人~600人になりました。船数と人数から考えると1隻で150人以上乗った可能性があるので、それなりの規模があったと思われます。そのうちの半数は漕ぎ手などの船員やスタッフであったと考えられます。
船を複数にした理由は、難破や遭難のリスクがあったために、全員が一度に命を落とすことを避けるためにリスク分散が取られたためであると思われます。
船の本当の形状や大きさなどの正確な情報については不明です。また、遣唐使を描いた絵なども残っていません。そのために、数百年後の鎌倉時代に描かれた絵巻物に描かれている遣唐使船を参考して、想像するしかありません。さまざまな絵巻物では折り畳み式の帆を備えて帆走していたことが分かっています。
航海日数は東シナ海を横断するのに、季節や気象条件もあったと思いますが、平均すると1週間ほどでかかったと考えられます。ただし出航するまでに、港で条件の良い風向きになるまで待つ必要があったので、それも加えると日数はさらに増えることになりました。
航路は北路、南路、南鳥路の3つのルートがあります。
北 路 … 博多から壱岐・対馬を経由して、朝鮮半島の西岸沿いを進んで、黄海を横断して山東半島に到達するルートです。
南 路 … 博多から五島列島を経て、そこから東シナ海を横切って大陸に渡るルートです。最短コースで日数は短縮できますが、遭難の危険も多いルートです。
南島路 … 九州から南西諸島に沿って、沖縄、石垣などを南下し、そこから東シナ海を横切って大陸に渡るルートです。
下の一覧から見ても分かるように、当初は北路ルートが多かったのに、途中からは南路ルートが取られるようになりました。それは日本と朝鮮半島の新羅との関係が理由といえます。もともと日本と親しかった百済が新羅に滅ぼされたことから、白村江の戦いへと発展し、百済・日本連合軍と新羅・唐の連合軍との激戦となりますが、百済・日本側が敗れてしまいます。結果として、日本と新羅との関係は悪化します。北路を使うと朝鮮半島の新羅沿岸部を通らなければならなかったので、それを避けるルートとして南路などが使われるようになりました。
遣唐使の記録一覧
| 回 | 出発年 (予定含む) | 帰国年 | 統括者 | 船数 | 航路 | 主な人物 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 630年 | 632年 | 犬上御田鍬 | ? | 北路 | |
| 2 | 653年 | 654年 | 吉士長舟 | 2 | 北路・南路 | |
| 3 | 654年 | 655年 | 高向玄理 | 2 | 北路 | |
| 4 | 659年 | 661年 | 坂合部石布 | 2 | 南島路・南路 | |
| 5 | 665年 | 667年 | 守大石 | ? | 北路 | |
| 6 | 667年 | 668年 | 伊吉博徳 | ? | ー | |
| 7 | 669年 | 670年? | 河内鯨 | ? | 南路 | |
| 8 | 702年 | 704年 | 栗田真人 | 4 | 南路 | 山上憶良 |
| 9 | 717年 | 718年 | 多治比県守 | 4 | 南路 | 吉備真備 阿倍仲麻呂 |
| 10 | 733年 | 734年 | 多治比広成 | 4 | 南路 | 吉備真備 |
| (11) | 746年 | ー | 石上乙麻呂 | ー | ー | (中止) |
| 12 | 752年 | 754年 | 藤原清河 | 4 | 南路 | 鑑真 |
| 13 | 759年 | 761年 | 高元度 | 1 | 渤海路 | |
| (14) | 761年 | ー | ? | ー | ー | (中止) |
| (15) | 762年 | ー | 中臣鷹主 | ー | ー | (中止) |
| 16 | 777年 | 778年 | 小野石根 | 4 | 南路 | |
| 17 | 779年 | 781年 | 布勢清直 | 2 | 南路 | |
| 18 | 804年 | 805年 | 藤原葛野麻呂 | 4 | 南路 | 空海・最澄 |
| (18) | 805年 | 806年 | 高階遠成 | 2? | ||
| 19 | 838年 | 839年 | 藤原常嗣 | 4 | 南路 | |
| (20) | 894年 | ー | 菅原道真 | ー | ー | (中止) |
※(18)は18回で行けなかった残りの船が改めて派遣されたとする見方があります。
遣唐使に関わった主な人物
遣唐使に関わった主な人物について見てみましょう。ここにあげた人物はほんの一部で、取り上げればきりがありません。遣唐使には、多くの政治家、僧侶、学者などが選ばれて渡唐しました。さらに鑑真などをはじめとして、優れた人材も唐から来日しました。
山上憶良 … 42歳のときに渡唐しました。下級貴族出身の官人ですが、歌人としても優秀で、「万葉集」には約80首の歌を残しています。唐では儒教や仏教などを学びました。
吉備真備 … 717年に渡唐して次の回で帰国しました。学問僧(留学生)として唐に留学しました。唐では18年間過ごし、学問をはじめとして軍事、天文、音楽などの知識も吸収しました。帰国後は聖武天皇に重んじられました。一時期政争に巻き込まれて、地方に左遷された時期もありましたが、中央政界に復活した後は政治の世界で活躍し、右大臣まで出世しました。
阿倍仲麻呂 … 717年に渡唐し、吉備真備らとともに唐に留学しました。その並外れた才能が見いだされ、高く評価されて唐で高官として仕えて活躍します。しかし、優秀な人材を失いたくなかった皇帝によって帰国が拒否されます。その後の遣隋使で、やっと一時帰国の許可が出たにもかかわらず、船が途中で難船してベトナムに漂着してしまいます。ベトナムから唐に戻った後も唐で仕えましたが、念願の日本への帰国の夢が叶うことはありませんでした。
鑑真 … 唐の揚州生まれで、江南第一の大師となりました。742年に日本から訪れていた留学僧である栄叡と普照を通して日本への渡航を依頼され、日本行きを決意します。その後12年間で合計5度の渡日を試みますが、暴風雨や妨害により失敗し、さらに両目の視力を失うことになります。それでもあきらめずに6度目の挑戦が成功し、753年についに来日を果たします。このときも唐からは正式な許可が出ていなかったために隠れて乗船しました。日本到着後、亡くなるまでの10年間は、東大寺を与えられ、唐招提寺を建立し、多くの人々を指導しました。日本での仏教の発展に貢献しただけでなく、貧しい人々を救済するための悲田院を設けて、福祉活動も行いました。
空海 … もともと学問を修めていましたが、仏教の世界に入って出家しました。31歳で渡唐し、唐の高僧にも認められて弟子となり、密教について伝授されました。2年間過ごした後に帰国し、真言密教の布教を開始し、高野山(現在の和歌山県)に修行のための道場を開き、真言宗の開祖となりました。
最澄 … 東大寺で仕えていましたが、比叡山に入って修行します。さらに仏教について学ぶために、中国で主要な宗派であった天台宗を学びたいことを桓武天皇に願い出ます。こうして38歳で渡唐し、1年間の滞在中、天台山で天台教学を学び、禅の教えも受け、空海と同様に密教についても伝授されます。帰国後、比叡山(現在の滋賀県)に延暦寺を開き、桓武天皇の保護の下で天台宗を広めることによって、日本の天台宗の開祖となりました。
白村江の戦いがありましたが、遣唐使には影響なかったのですか?
白村江の戦いは、663年に起こりました。朝鮮半島南西部の白村江(現在の錦江河口付近)で、日本・百済の連合軍と唐・新羅の連合軍が戦い、日本側が大敗しました。
この戦いでは当然ながら日本と唐は敵対関係になりましたが、この戦いの前後にも遣唐使が頻繁に派遣されていることが分かっています。
戦前の遣唐使では、朝鮮半島の政治問題に対応するためであったと考えられます。そのような最中、第4回の遣唐使では大使らが一時的に軟禁される事件が起きました。これは日本側が取った行動(スパイのような活動?)が、唐にとって不都合であると捉えられたのかもしれません。
戦後も遣唐使を通して交流は行われたようで、日本・唐の関係を正常化するための努力が図られました。結果として戦後も途絶えることなく派遣が行われました。
なぜ廃止されたのか?
894年(寛平6年)、宇多天皇によって20回目の遣唐使が検討されていました。これは唐からの求めによるものでした。この派遣で責任者として任命されたのが菅原道真でした。
しかし、道真は唐の情勢も綿密に調査した上で、遣唐使について、「請令諸公卿議定遣唐使進止状」という上奏文を宇多天皇に提出しました。遣唐使を今後も派遣を続けるか中止にするかについての判断を仰ぎました。
道真が再検討を提言した理由は次の点でした。
隆盛を誇っていた唐は衰退期に入っていて、838年の遣唐使を最後に50年以上実施されていませんでした。さらに当時、唐では874年頃から10年間にわたって農民の大規模な反乱である「黄巣の乱」が起きていて、都の長安などは陥落していました。このように政治が混乱している唐へ派遣しても、日本としては利益が少ないと考えられました。
遣唐使は渡航するさいに、遭難したり盗賊にあったりすることが多く大変危険でしたが、国力が安定していた時期は唐に入った後は安全に行動できました。しかし混乱している現状では、唐に入ってからも危険で、行程全体を通して身の安全が保障できないと考えられました。
この上奏を受けて、894年に遣唐使は中止されます。この段階では中止でしたが、その後の国内問題や唐の衰退のために派遣計画は進まず、907年(延喜7年)に唐が滅亡したことによって、ついに遣唐使は再開されることはなく、終わりを迎えました。
廃止後の中国との関係は?
遣唐使が停止された後も、貴族などを中心とした唐への憧れは変わりませんでした。そのために唐の学問や物品への需要がありました。
遣唐使停止後に日本独自の文化である国風文化が花開きますが、依然として都の貴族を中心として唐物は重用されました。朝廷でも公文書は漢文で作成されるという慣習も続きました。
唐物 … 唐からやって来た品物全般のことです。平安時代には貴族の間で唐物を持つことが一種のステータスになっていました。唐滅亡後も中国から来たものも唐物と呼ぶようになりました。


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