概要
「富本銭」「和同開珎」は、どちらも古代に存在した貨幣です。かつては和同開珎が日本最古のお金と考えられていましたが、20世紀に富本銭に関する調査が進んだことによって、富本銭の方がより古いお金であることが分かってきました。このように、時代とともに古代の貨幣制度の始まりが明らかになってきたのです。
コレクションとして古銭は代表的なアイテムですが、日本の古銭収集は江戸時代に趣味として流行り始めました。その頃から、和同開珎は日本最古のお金と認識され、高い評価を受けるとともに人気がありました。
富本銭と並んで最古とされるお金として、「無文銀銭」というものもあります。文字が刻まれていないことが名称の由来となっています。私的に鋳造されたという説や国家によって発行されたという説もあります。近江(現在の滋賀県)の遺跡を中心に発掘されています。
紙幣 … 紙のお金が使われ始めたのはずっと後の時代です。江戸時代初期の1600年頃の伊勢地域(現在の三重県)で使われた「山田羽書」が最古の紙幣といわれています。
富本銭について
実は富本銭については古くから知られていました。江戸時代の書物「富本七星銭」でも図柄とともに紹介されており、専門家の間ではその存在が知られていました。明治時代に入ると、富本銭はその作りから古代のものであると推測されるようになりました。
20世紀に入り、近畿各地の飛鳥時代~奈良時代の遺跡から相次いで富本銭が発見されます。
1969年(昭和44年)には平城京跡(現在の奈良県奈良市付近)から、1991年(平成3年)にはそれよりも古い藤原京跡(現在の奈良県橿原市)から出土します。1999年(平成11年)には、さらに古い飛鳥宮跡(現在の奈良県明日香村)の「飛鳥池工房遺跡」から数十枚の富本銭が発見され、そのたびに時代がさかのぼっていきました。
発掘にあたった奈良国立文化財研究所は1999年(平成11年)1月19日に、調査・研究の結果、それまでの最古の貨幣といわれた和同開珎よりも古い時代の、天武天皇期の飛鳥宮で683年頃に作られ始めたことを発表しました。それまでは和同開珎こそが国内初の貨幣とされていましたが、これまでの定説を大きく覆す発見となりました。教科書の内容を変えるほどの大発見だったのです。
日本書紀には、683年に『今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いないように』という記述が出てきますが、この記述が「無文銀銭を廃止して、富本銭を使用するように」という意味である可能性が高まりました。
富本銭が実際に市場に流通していたのかは分かっていません。流通せずに試作されたものに過ぎなかったという説や、有力者のお墓に埋めるために作られたおまじない用だったという説もありますが、本当のところははっきりしません。いずれにしても、国産の日本最古の公的な貨幣となったのです。

円形になっていて、直径が約24.5mmです。中央には約6mmの正方形の穴が開いています。厚さは約1.5mmで、重さは約4.5gほどです。
ちなみに現在の10円硬貨が直径23.5mm、厚さが1.50mm、重さが4.5gなので、10円玉くらいのサイズと重さです。
材質は主に銅で、その他にはアンチモンなどの物質も含んでいます。これも現在の10円玉が約95%が銅を含んでいるところも似ているといえます。
表面には「富本」という文字が縦に入っています。この文字は中国唐の時代の故事に由来しています。
アンチモン … 原子番号51の半金属元素で、化学式はSbです。光沢のある銀白色の物質です。現代でもプラスチックの難燃剤、鉛電池、半導体などの多くの用途に使われています。
富本銭は素材である銅よりも高い価値を持たせた名目貨幣として使われていたことが、それまでの無文銅銭との違いでした。
名目貨幣 … それ自体の素材の価値とは無関係に、表示された額面の価値を強制的に与えられている貨幣のこと。現在流通しているお金も名目貨幣といえます。
現在の市場価値
出土数が少ないので、コレクションとしては、一般的な古銭と比べられないほどの価値があって、簡単に金額が付けられません。つまり万が一発見されれば、全国ニュースになるほどのレベルで希少価値があるのです。
和同開珎について
和同開珎は元明天皇期の708年(和銅元年)から、日本で鋳造・発行されたといわれている貨幣です。続日本紀では、その年に武蔵国秩父地方(現在の埼玉県)から良質の銅が献上されたことがきっかけといわれています。
「和同開珎」と元号の「和銅」では、漢字が異なりますので注意してください。
当時、唐では貨幣経済が確立していました。政府は先進国であった唐の開元通宝という銅銭を参考にして、貨幣経済の仕組みを取り入れようとしたのです。さらに、701年(大宝元年)の大宝律令制定後の律令国家を強固にしていくのに、国主導で経済も活性化させる必要がありました。
さらに710年(和銅3年)に始まった平城京への遷都のための国家事業のために、多くの労働者に給料を支払う必要がありましたが、米などの物資で支払うかわりに和同開珎を払ったのです。和同開珎も名目貨幣だったので、支払えば支払うほど国が儲かる仕組みになっていたのです。
ちなみに発行当時の価値は、1枚(1文)で1日分の労働賃金とされていました。
政府は何としてでも銭貨を流通させたいと考えていました。711年(和銅4年)には、蓄銭叙位令が施行されました。この法令は、一定額の銭を蓄えて政府に納めた者に、額に応じて位階を与えるという制度でしたが、和同開珎などの銭貨の流通を促進させることが狙いでした。
和同開珎は徐々に流通しましたが、当時の社会に浸透するまでは時間がかかりました。全国に目を向けると、農村部では依然として物々交換で生活が成り立っていたために、そもそも銭貨をそこまでは必要としなかったのです。そのために都や畿内を中心に流通した考えられます。先ほどの蓄銭叙位令も実施された例は少なく、やがて廃れていきます。
それでも限定的にしか流通しなかった富本銭と比べると、国内で初めて広く流通したのは和同開珎であるといえます。

円形になっていて、直径が約24mmです。中央には約7mmの正方形の穴が開いています。厚さは約1.5mmで、基本の重さは約3.7gほどです。富本銭とほぼ同じサイズになります。
材質は銅を主体とする銅銭と、銀を主体とする銀銭の2種類があります。試作品や私鋳銭とされて流通しなかった銅銭や銀銭を古和同といいます。それに対して、一般的に流通した銅銭は新和同といいます。新和同に銀銭はありません。古和同と比べて薄くて刻印が鮮明です。
表面には「和同開珎」という文字が上下左右に時計回りに一文字ずつ入っています。裏は文字はありません。ちなみに「珎」は「宝」に通じていて、「開珎」は「新しく宝を開く」「初めてのお金を開く(世の中に出す)」という意味が込められています。
現在の市場価値
コレクションとしては、一般的な保存状態で銅銭は数万円~十万円ほど、さらに状態が極めて良い物は数十万円~百万円ほどの価値になることがあります。ただし和同開珎は偽物も多く出回っています。さらに銀銭は流通量が少なく、銅銭と比べて非常に貴重なものです。
その後どうなったか?
和同開珎は、その後50年近くにわたって流通しました。その後も次々と政府は、銅銭の発行を繰り返していきます。
以下の表のように、7世紀終わり頃から、富本銭、和同開珎をはじめとして合計13種類の銅銭が順次発行されていきます。特に和同開珎から乾元大宝までの政府が鋳造を指示した官製銅銭の総称を「皇朝十二銭」といいます。
皇朝十二銭
| 名称 | 読み方 | 鋳造年 |
|---|---|---|
| 和同開珎 | わどうかいちん | 708年(和銅元年) |
| 万年通宝 | まんねんつうほう | 760年(天平宝字4年) |
| 神功開宝 | じんくうかいほう | 765年(天平神護元年) |
| 隆平永宝 | りゅうへいえいほう | 796年(延暦15年) |
| 富寿神宝 | ふじゅしんぽう | 818年(弘仁9年) |
| 承和昌宝 | じょうわしょうほう | 835年(承和2年) |
| 長年大宝 | ちょうねんたいほう | 848年(嘉祥元年) |
| 饒益神宝 | じょうえきしんぽう | 859年(貞観元年) |
| 貞観永宝 | じょうがんえいほう | 870年(貞観2年) |
| 寛平大宝 | かんぴょうたいほう | 890年(寛平2年) |
| 延喜通宝 | えんぎつうほう | 907年(延喜7年) |
| 乾元大宝 | けんげんたいほう | 958年(天徳2年) |
律令制の下、次々に鋳造されました。国としては貨幣経済を整えて、都の建設や租税を集める目的で発行したのです。また名目貨幣であったために、流通すればするほど、政府はその差額を収入として、経費を賄うことができたのです。
当時の技術では材料となる銅の資源量が限られていたために、銅の採掘量は低下していきました。そのために、改鋳を重ねるごとに質は悪化していきました。それとともに、銭の価値も低下し、銭1枚(1文)で買えるものも少なくなっていきました。こうして市場の信用も失い、不人気になった官製銅銭は次第に避けられるようになりました。10世紀半ばの乾元大宝を最後として官製銅銭の鋳造は中止されたのです。こうして古代の国主導の貨幣政策は大きな転機を迎えることになります。
これ以後は時代が戻ったように、実物による交換や、国内産の貨幣のかわりに中国からの宋銭などが流通していきます。


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