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【歴史】班田収授法・三世一身法・墾田永年私財法とは?

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概要

班田収授法はんでんしゅうじゅほう 、古代の律令国家で採用された土地制度です。この制度は、大化の改新による政治改革の最中に登場しました。

班田収授法という言葉にはどんな意味がありますか?

「班田」とは分けられた土地(田んぼ)、「収」は土地を収めること、「授」は土地を授けることという意味があります。このことから、一度授けられた土地は、収めるものであったことが分かります。

現代の日本ではほとんどの土地は私有財産ですが、この制度の下では、土地はすべて国有財産で、一定の年齢に達すると一時的に授けられた土地は、亡くなると国に返す必要がありました。このために国が土地と人民をしっかりと把握する必要が生じましたが、次第にうまく運用されなくなりました。

そこで後に登場したのが、三世一身法や墾田永年私財法です。班田収授法で起こった問題点を改善するために制定されました。これらの法によって、土地は国有財産から私有財産へと転換していきます。

この記事では、班田収授法、三世一身法さんぜいっしんのほう墾田永年私財法こんでんえいねんしざいほう 内容と効果について解説します。

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班田収授法とは

班田収授法はんでんしゅうじゅほう 、日本書紀の記録によると、646年(大化二年)の「改新の詔」 かいしんのみことのり の中で発布された制度ですすが、実際に制度が整えられたのは、690年に施行されたのは「飛鳥浄御原令あすかきよみはらりょう」といわれています。

701年(大宝元年)の大宝律令が制定されたことにより、本格的に運用されていきます。この制度は中国の唐の「均田制きんでんせいを参考にされました。

均田制 … 485年に北魏ほくぎで始まりました。土地は国のものとして、戸籍に登録された成年男子(時代による)に一定面積の土地を与えました。受け取った土地は、亡くなったり老齢になったりした場合に国に返納されることになっていました。

男女ともに6歳になると口分田という土地(田)を与えられて、亡くなると国に返すというものでした。与えられた農地を耕作して、収穫物の一部を納める必要がありました。

班田収授法を語る上で欠かせないのが「公地公民こうちこうみん」という方針です。これは土地も人民も国つまり天皇のもので、国が直接支配するという考え方です。つまり個人私有は認めないということです。

それまでは皇族や豪族などが、個人的に土地(田荘たどころ)や人民(部曲かきべ)などを支配していましたが、そのような状況だと豪族がどんどん力をつけ、朝廷にとって大きな脅威となります。そこで、土地や人民をすべて取り上げて、国が直接支配することによって、天皇中心の中央集権国家を確立しようとしました。この中で誕生したのが班田収授法だったのです。班田制だと土地は誰のものにもなりません。こうして豪族の力をそいで、天皇に権力が集中できるようにしました。

国有だった土地を口分田くぶんでんとして分け与えるためには、国が人民を把握していなければなりません。どこに誰が住んでいるかなどの個人情報を管理しなければなりません。そこで戸籍・計帳という記録を作成して、その情報に基づいて戸ごとにまとめて分け与え(班給) はんきゅう ました。

口分田とは何ですか?

国が人民(民衆)へ貸し出した土地(農地)のことです。貸し出された人々は、それを耕し、収穫物の一部を税として納める必要がありました。そのような税を「」といいます。

口分田は、具体的に以下の面積が与えられました。

【良民】6歳以上の男子 …… 2反(約23アール/約2300m)
【良民】6歳以上の女子 …… 良民男子の3分の2
【賤民】官戸かんこ公奴婢くぬひ ……… 良民と同じ
【賤民】家人けにん私奴婢しぬひ ……… 良民男女の3分の1

口分田は当人が亡くなったら国に返納することになっていました。これを収公しゅうこう いいます。公地公民の方針のもと、あくまでも土地は国のもので、貸与されたものにすぎなかったのです。

律令国家では人民は良民と賤民に区分されていましたが、口分田は賤民にも与えられました。賤民は以下のような人々でした。

賤民せんみんについて

賤民は、身分制度で最下層とされた奴隷的地位にあった人々のことで、「陵戸りょうこ・官戸・家人・公奴婢・私奴婢」があり、社会的な様々な権利が制限されました。これらの人々をまとめて「五色ごしきせん」といいます。

陵戸は天皇・皇族の陵墓を管理しました。官戸は国家に属しながら、公的な雑役や労役などに仕えました。家人は貴族や豪族の私人に仕えていました。

奴婢は主人に所有され売買された奴隷身分の人のことです。奴婢は、国家・寺院などの公的機関に属する公奴婢(官奴婢)、貴族・豪族などの個人に所有される私奴婢に細分化されました。

国は6年ごとに人民の戸籍・計帳を作成しました。個人の状況は常に変わっていくので、定期的に情報を更新する必要があったのです。今でいうと国勢調査のようなものですが、最新情報に基づいて新たな資格者に確認し直し、その時点で満6歳以上に達していた者に与えられました(班給) はんきゅう

戸籍 … 口分田を班給するために人民を登録した基本台帳です。各戸ごとの構成員・身分・親族関係などが記録されました。6年に1度の間隔で更新されました。

計帳 … 庸・調などの税を徴収するための基本台帳です。年齢・性別・身体的特徴・税の有無などの細かな項目がありました。毎年更新されました。

中国の均田制と日本の班田制の違いは何ですか?

均田制と仕組みが似ていますが、均田制は税を負担する成人男子が土地を支給されたのに対して、日本の班田制は、老若男女問わず、さらには賎民も含めて支給された点が大きく異なります。

制度の目的

この制度を運用することには様々なメリットがありました。以下にまとめてみました。

  • 全国の土地を国有とすることによって、天皇を中心とする中央集権国家を確立できる
    → 人と土地を把握できる
  • 口分田を与えることで、全国の土地を人々に管理・維持させることができる
  • 収穫物の一部を租税として確保することによって、安定した収入を得ることができる
    → 国の財政を安定させる
  • 口分田が与えらえることによって、人々には耕作地が保障される
    → 安心して生計を立てられる

一見良さそうな制度に見えますが、様々な問題点もありました。それらが顕在化することによって、制度は形骸化していきます。

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三世一身法と墾田永年私財法

人口が増加するにつれて、奈良時代には口分田が不足してきました。また、当時の農業技術では生産力はまだまだ貧弱だったため、税収入も向上しませんでした。場合によっては、条件の悪い口分田が割り当てられたこともありました。                                                                                                                                                                                        

こうした状況下では、農民たちの勤労意欲は沸きません。さらに収公期限が近づくと、耕作自体を放棄し、農地は荒廃していきました。中には土地を捨てて、逃亡者や浮浪人になる者が出てきました。そこで国も方針を変えることにします。

三世一身法

三世一身法さんぜいっしんのほうは、723年(養老七年)に出された従来の制度を修正する法令で、開墾を奨励することが目的でした。具体的には、新たに灌漑かんがい施設(用水路や池)を作って開墾した田に関しては、三世代まで私有することを認めました。ただし三世代の後に国に返すことになっていました。

「さんせいっしんのほう」とも読みます。

また既存の灌漑施設を再利用(例えば、古い用水路や池を改修した場合)して開墾した者については、一代限りの私有を認めました。

三世代 … 本人・子ども・孫という説が有力ですが、子ども・孫・曾孫という説もあります。

一定の期限付きで私有を認めることによって、それまでの方針を変えました。これによって、民間の開墾意欲を高めて、国の租税収入を確保しようとしたのです。

結果

しかし、結局は最終的に収公されて国のものになるため、収公期限が近づくと、耕作を放棄して荒れ果てる例が後を絶ちませんでした。今の感覚で三世代というと、かなりの長い期間を想像しますが、当時は今よりも寿命が短かったので、三世代といっても今ほどの長さにはなりませんでした。

また、開墾する面積に制限はありませんでした。そのために土地を開墾する体力がある、富裕な貴族・寺社などが開墾を進めました。結果として、一部の者が大規模な土地を所有することとなりました。この制度の恩恵を受ける者は限られたのです。

墾田永年私財法

思ったように効果が出なかった三世一身法にかわって、743年(天平十五年)に墾田永年私財法こんでんえいねんしざいほうが出されました。これは自分で開墾した土地は、永遠に私有地として認めるというものでした。聖武しょうむ天皇の勅命によって出されました。この法は土地に関する概念や制度を大きく変えるものとなりました。

開墾するためには、国へ申請することが必要でした。許可が出れば、一定期間内に開墾をする必要がありました。その通りに実行すれば、自分の土地にすることができました。

結果

私有を認めたことによって、富裕な貴族や寺社の大土地所有がより進んでいくことになりました。これらの私有地が荘園として発展していくことになります。一般の農民では資金や人手が足りず、開墾することは困難だったのです。

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