概要
毎年6月1日は気象記念日です。1875年(明治八年)6月1日に東京気象台が気象観測を開始したことを記念して、1942年(昭和十七年)に制定されました。気象記念日は日本独自の記念日なのですが、世界的な気象の記念日としては3月23日の「世界気象デー」があります。
2025年(令和七年)に気象業務が始まって150周年を迎えました。
日本は四季の変化があり、さらには変化に富む気候があることで、それらの恩恵を受けてきました。しかしそれゆえに、地震、台風、豪雨、大雪、干ばつなどの自然災害も経験してきました。このような国において、近代的な気象観測が必須でした。
記念日の目的は?
- 気象業務の歴史と役割を振り返ること
- 防災や気象情報の重要性への理解を深めること
気象観測開始まで
日本初期の気象業務に欠かせない人物が二人います。それはイギリス人のマクビーンとジョイネルです。彼らは当時の先進国であったイギリスの技術を伝えるために来日します。
イギリス人マクビーンは灯台建設のために、旧幕府に依頼されて1868年(明治元年)に来日していましたが、政権移譲によって新政府で引き続き業務に従事することになりました。当初の任務を終えると、今度は工部省の測量司に入り師長として、地図作成のために全国を測量することになります。
測量司 … 陸地の測量を行い地図を作製した組織で、1871年(明治四年)に工部省工学寮内に置かれました。イギリスから招聘された測量技術者の指導の下、日本の各地で三角測量を実施しました。1874年(明治七年)には内務省へ所属が変更されました。現在の国土地理院にも繋がる組織です。
この頃、同じくイギリス人技術者であるジョイネルは東京・横浜間の鉄道建設のために日本に招かれ、1870年(明治三年)に来日しました。翌年マクビーンより少し遅れて、工部省測量司に転属となります。
こうして二人は測量司でともに業務にあたり、ジョイネルはマクビーンを補佐します。1873年(明治六年)に、ジョイネルが日本における気象観測の重要性を説いて、観測を実施するように政府に働きかけます。これを受けて政府は気象観測を始めることを決定し、気象器械をイギリスに依頼しようとします。
イギリスに渡ったマクビーンは、シャーボーという人物に、気象器械の調達を依頼しました。1874年(明治七年)に必要な器械を揃えて来日します。そのさい、日本に地震が多いことを考慮して、地震計も導入することにします。地震が起こると観測点が動いてしまうことがあるからです。正しい観測を行うためには地震計測も必要だと考えたのでしょう。
同年に内務省が設立され、測量司は内務省に移管された後、廃止されます。業務内容は内務省量地課に引き継がれます。すでに話が進んでいた気象観測のために気象掛 (通称:東京気象台)が設置されます。
東京気象台は東京府赤坂区溜池葵町の内務省地理寮内置かれました。現在の東京都港区虎ノ門(ホテルオークラのあるあたり)です。ここにはかつて松平大和守邸があった所です。21世紀の都心では信じられないかもしれませんが、当時はタヌキやアナグマが生息するような土地でした。
松平大和守家 … 徳川家康の次男・結城秀康を源流としている由緒ある家系です。
いよいよ観測開始
1875年(明治八年)6月1日、地震観測が開始されました。記念日は6月1日となっていますが、正確にはこの日は気象観測は行われず、実際には4日後の6月5日から気象観測が開始されました。
実は日本初の気象観測は、1875年6月1日ではありません。実は東京気象台よりも先に、北海道で1872年(明治五年)8月26日より気象観測が始まっていました。観測といっても、本格的な施設があったわけではなくて、開拓使函館支庁の福士成豊の自宅に観測機器を設置して、そこを気候測量所(現在の函館地方気象台)としました。ですから、気象記念日は「東京気象台から気象観測が始まった日」ということができます。
気象観測は、ジョイネルによって一日三回行われました。観測時刻は午前9:30、午後3:30、午後9:30の6時間毎に設定されていました。観測機器としては、地震計、晴雨計、乾湿計、地温計、風速計などが設置されました。ほとんどがイギリスから取り寄せたものでしたが、地震計に関しては同じ地震国であるイタリアから取り寄せました。
これらの記録の一部は気象庁の過去データに残っています。初めの数ヶ月間はジョイネルが一人で行っていましたが、地震観測も兼ねていたので、業務量は大変だったと思われます。その後人員が強化され日本人も加わり、観測技術は日本人へ継承されていきます。
1876年(明治九年)からは、新たに午前3:30の回が加えられて、一日四回体制になりました。
天気予報が開始される
日本初の天気予報を語る上で欠かせないのは、ドイツの航海士で開成学校(現在の東京大学)で教授をしていたエリヴィン・クニッピングという人物です。航海士だった経験を活かして気象の知識を持っていました。
1882年(明治十五年)に、東京気象台に入って天気図を作るために、地方の測候所を整備し、各地方で観測した結果を東京に気象電報で知らせるようにしました。1883年(明治十六年)2月16日から気象電報を受信し始めました。電報内容は、気圧・気温・雨量が数字二桁、風向・風力・雲向・天気などが数字一桁で構成されていました。それにあわせて試験的に天気図も作製され始めました。翌月からは天気図を印刷して、宮中、役所、新聞社に提供します。
2月16日は「天気図記念日」です。
さらに翌年の1884年(明治十七年)6月1日、天気図を元に一般向けの天気予報も始まりました。東京気象台で気象観測が開始された日から丸9年がたっていました。
東京気象台からの初めての天気予報は6月1日午前6:00に発表されました。その後、午後2:00、午後9:00の合わせて一日三回発表されました。天気予報といっても地方別に細分化されたものではなくて、全国統一の大まかな予報でした。また、現在のような通信手段が無かったので、発表内容は東京市内の交番などの公共の施設に掲示されるだけでした。
天気予報の内容は次のようなもので、一文だけのシンプルなものでした。
「全国一般風ノ向キハ定マリナシ。天気ハ変ワリ易シ。但シ雨天勝チ」
【意味:全国的に風向きは定まらず、天気が変わりやすく、雨が降る所が多くなりそうです】
1888年(明治二十一年)には新聞に天気予報が掲載を開始し、1925年(大正十四年)にはラジオ放送も開始されました。このようにして、天気予報がより身近に、全国規模で浸透していきます。
記念日が制定された背景
1941年(昭和十六年)12月8日、真珠湾攻撃によりアメリカ・イギリスとの開戦に踏み切ります。開戦によって各地の気象台や測候所からの観測データは、すべて暗号化された上で、中央気象台(東京気象台から改称)に送られました。また同日より新聞・ラジオなどの天気予報がすべて行われなくなります。戦時中、気象情報は重要な軍事機密とされたからです。
戦時体制により、気象台の関係者のみならず、多くの軍人も気象業務に従事する必要が出てきました。確実な攻撃を実施するためには、戦地の気象情報は必須だったからです。しかし戦地で行う気象観測は命がけでした。そのために多くの気象関係者が命を落としたといわれています。
気象記念日は戦時中の1942年(昭和十七年)に制定されたことも、次々と減っていく業務従事者を即席で育成する必要に迫られていたために、戦意高揚とともに業務への意欲を向上させるためだったといわれています。


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