概要
大宝律令は、701年(大宝元年)に制定された日本の律令です。律令とは国家の基本的な法体系のことです。この律令をもとに、日本の国づくりが本格的に行われていきました。律令の名称は、元号からその名をとっています。
大宝(元号)… 701年~704年にあった元号です。大化から数えて4番目の元号になります。
律(りつ) … 現在の刑法に相当します。
令(りょう)… 現在の刑法以外の行政法や民法に相当します。
6巻の「律」と11巻の「令」の全17巻から成っています。中国の唐の律令を参考にして作られました。大宝律令の原文は存在していていないために、直接その内容に触れることはできませんが、「続日本紀」や「令集解」に一部の内容が残されています。
続日本紀 … 797年に完成した歴史書です。697年~791年までの95年間の歴史を扱っています。
令集解 … 養老律令の注釈書で、868年より前に編纂されました。
制定された背景
飛鳥時代は、朝鮮半島での国々の争いに続いて、唐・高句麗との戦乱(663年:白村江の戦)で、日本は朝鮮半島にある百済と連合軍を組んで戦いましたが、敗れてしまいました。百済が滅びることによって、次はそれを支援していた日本が唐のターゲットになるかもしれませんでした。
こうした状況で、日本各地で豪族などの実力者がそれぞれ活動したり争ったりしていると、唐などの外国勢力が攻め込んで来たときに、一致団結できずに侵略される可能性がありました。
国として一つにまとまるためには、天皇を中心とする国全体を治める仕組みがなければいけません。そこで、当時中央集権国家として強力だった中国(唐)の律令を手本にして、日本でも中国のような強い国家を作ろうとしたのです。
こうして681年(元号無し)に、天武天皇の詔によって「飛鳥浄御原令」の編纂が開始され、689年(元号無し)に持統天皇によって施行されました。これは、大宝律令に先立つ日本初の本格的な法体系となりました。
しかし、この名称から分かるように「令」のみで「律」がありませんでした。さらに、この令の内容が唐の制度により近かったために、日本の実情に合っていませんでした。そのためにより必要を満たすために編纂が続行されて、さらには律も加えられた形で、701年(大宝元年)に大宝律令に成立しました。
大宝律令の編纂にあたって、刑部親王と藤原不比等らが中心となりました。
刑部親王 … 天武天皇(大海人皇子の時代に壬申の乱で勝利)の第9皇子です。
藤原不比等 … 大化の改新で活躍した中臣鎌足の次男です。鎌足が亡くなった後、大納言・右大臣などの主要な役職を歴任し、藤原氏の地位の基礎を整えました。
「律」の内容
現代の刑法にあたる律では、以下の8つの行為が大きな罪とされました。
八逆
- 謀 反 … 天皇を殺害すること(未遂や計画も含む)
→「ぼうへん」とも呼びます。 - 謀大逆 … 皇居・陵墓を破壊しようとすること
- 謀 叛 … 国家に対する反乱、外患誘致、外国への亡命
- 悪 逆 … 両親や祖父母を殺害するなどの人から外れた悪行
- 不 道 … 大量殺人、残虐な殺人、近親者に対する殺人(悪逆ほどではない事案)
- 大不敬 … 神社を破壊・皇室に対する無礼な振る舞いをすること
- 不 孝 … 父母・祖父母に対して起こす殺人以外の犯罪行為
→「ふきょう」とも呼びます。告訴・呪詛・悪口・扶養放棄・喪に服さないことなど。 - 不 義 … 主人・上司などの目上の人を殺害すること、夫への服喪違反
以上のような罪を犯した者に対しては、以下のような刑罰がありました。
五刑(刑の軽い順)
- 笞 … 竹のムチ(細い棒)で打つ刑
→ 刑の内容によって、10回~50回の5段階に分かれていました。 - 杖 … 太い杖で打つ刑
→ 刑の内容によって、60回~100回の5段階に分かれていました。 - 徒 … 1年~3年までの懲役刑
→ 1年・1年半・2年・2年半・3年の5段階に分かれていました。 - 流 … 遠方への追放
→ 近流・中流・遠流の3段階に分かれていました。遠流になると、佐渡島や隠岐の島などがありました。 - 死 … 死刑
→ 絞(絞首刑)と斬(首を斬られる)の2種類がありました。斬の方がより重い刑でした。
「令」の内容
律令制での中央官庁の組織は、「二官八省一台五衛府」から成っていました。天皇を頂点として神祇官と太政官が設置されました。さらに太政官の下に8つの省があり、官僚が分担して行政を担当していました。その他にも弾正台や五衛府といった役職がありました。
- 二 官 … 神祇官・太政官
- 八 省 … 宮内省・大蔵省・刑部省・民部省・治部省・式部省・中務省
- 一 台 … 弾正台
- 五衛府 … 衛門府・左兵衛府・右兵衛府・左衛士府・右衛士府

「二官」の内容
太政官
太政官のさらにその下に属していた8つの省を統括する行政全般の最高機関として位置付けられていました。太政官の長(トップ)は太政大臣ですが、常設の役職ではありませんでした。実務は左大臣が担当し、右大臣は左大臣の補佐をしました。太政大臣が不在のときは、左大臣が実質のトップの役職でした。現代では内閣府に相当すると考えられます。
古代の「太政官」は「だいじょうかん」と呼びましたが、1868年以降の明治政府に設置された「太政官」は「だじょうかん」と呼んで、呼び方を区別するようになっています。理由は古代律令制と明治政府での太政官は性質が異なるからです。
神祇官
神祇官は、朝廷での祭祀(神道などの儀式全般)を統括する最高機関として位置付けられていました。神祇官の長(トップ)は神祇伯といいました。現代では政教分離が原則なので、これに相当するものはありません。(「祇」の漢字は示へんに氏)
「八省」の内容
宮内省
政治に関係の無い宮中の庶務を扱いました。現代ではその名の通り宮内庁に相当すると考えられます。
大蔵省
国家財政を担当していました。租税として納められたものの収納と管理、金銀などの財宝の管理、貨幣の鋳造や管理、官司に支給する物資や給与の手配を行いました。現代では財務省や経済産業省に相当すると考えられます。
刑部省
司法(裁判)と刑罰を担当していました。現代では法務省に相当すると考えられます。「きょうぶしょう」とも呼びます。
民部省
全国の戸籍や土地を把握し、租・庸・調などの税徴収し、それに基づいて国家財政の運営を担当していました。現代では財務省に相当すると考えられます。
治部省
仏教に関する事務の統括、寺院や僧侶に関する管理、遣唐使などの外交、朝廷の儀式などに関することを担当しました。現代では宮内庁や外務省に相当すると考えられます。
式部省
文官(役人)の人事(任用・昇進)や考課(勤務評定)を管轄していました。現代では文部科学省や人事院に相当すると考えられます。
中務省
朝廷の中枢に関わる事務を担当していました。具体的には、詔勅・宣命(天皇が発する公文書)の作成、公布、位記などの身分に関する文書の作成などを行いました。8省の中では一番影響力がありました。現代では宮内庁に相当すると考えられます。
兵部省
武官の任免・昇進などの人事・評価、衛士など兵士の管理、武器の保管と点検、軍備の整備などを担当しました。現代では防衛省に相当すると考えられます。
「一台五衛府」の内容
弾正台
各省の役人たちが、きちんと仕事をしているか監視する役割がありました。また都の風俗の取り締まりをしていました。たとえ違法を発見した場合でも、逮捕・裁判する権限はありませんでした(刑部省などが持っていた)。後の嵯峨天皇時代に検非違使が創設されると、権限をさらに奪われて形骸化していきます。
五衛府
宮廷を中心とする都や天皇周辺の警備を担当していました。
地方行政
地方は、国・郡・里の3つの行政単位に組織されました。一般的に国、その下に郡、さらにその下に里が置かれました。国には国司、郡には郡司、里には里長が置かれ、それぞれの行政単位をまとめました。
里長は「さとおさ」とも呼びます。里は715年(霊亀元年)に郷に改称されました。
国は60程度に分けられました。国司は中央政府から役人が派遣されました。このようにして、地方行政にも国の意思決定が伝わるようにして、権力が中央政府と天皇に集中しやすくしました。
郡司は現地の有力豪族が、里長には現地の村の有力者が任命されました。里は一般的に50戸(1戸で20~30人ほどの戸主の集合体)ほどの規模で構成されていました。
この他には、特別地域として九州の行政・防衛・外交のために大宰府などが置かれました。
大宰府は太宰府ではありませんので注意してください。大宰府は律令制における役所の名称なので、現在でも古代の役所や遺跡に関係するときは使われています。太宰府は地名や神社名などで一般的に使われています。
その後
内容は大宝律令とはほぼ同じですが、大宝律令の不備を補うために、再び藤原不比等らが中心となり「養老律令」が718年(養老二年)に完成しました。完成から約40年後の757年(天平宝字元年)に、藤原仲麻呂によって大宝律令にかわって施行されました。


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