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【歴史】5月15日 沖縄本土復帰記念日

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学習Q&A 歴史
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概要

5月15日は、「沖縄本土復帰記念日」です。

1972年(昭和四十六年)5月15日の午前0時をもって、第二次世界大戦終了直後から続いていたアメリカの統治が終了し、沖縄県として本土に復帰しました。

戦後の統治下にあって、多くの苦難と激動を経験しましたが、民主主義を求め、平和で安心して暮らせるために、悲願の復帰となったのです。

この記事では、戦後の沖縄の歴史と本土復帰までの経緯を解説します。

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戦争末期【1945年】

1945年(昭和二十年)3月26日、慶良間諸島に上陸したアメリカ軍はニミッツ布告(正式名称:米国海軍軍政布告第1号)を発します。これ以後、6月までアメリカ軍は沖縄進攻作戦(アイスバーグ作戦)の遂行のために沖縄戦を展開していくことになりますが、これに先立ち布告を出したことになります。

この布告により、日本政府のすべての権限(行政権・司法権)を停止し、それと同時に北緯30度以南の沖縄および奄美大島一帯をアメリカ海軍の占領下に置くことになりました。即実行に移された背景として、アメリカ側は上陸前からこのことを予定していたからです。

ニミッツとはどんな人物ですか?

チェスター・ニミッツは、当時アメリカ海軍の最高責任者でした。この布告名を出したとき、「米国太平洋艦隊及び太平洋区域司令長官兼南西諸島及其近海軍政府総長」という肩書きで布告を出しました。

8月15日、昭和天皇による玉音放送があった日の朝、沖縄県美里村(現在のうるま市)にあった石川収容所で住民による仮会議が開催され、沖縄諮詢会しじゅんかいが設置される方針が固まりました。これは占領下での本格的な行政機関が設立されるまで、米軍政府と住民とのコミュニケーションを図るための住民代表による諮問機関としての役割を果たすことになりました。

8月20日、選ばれた15人の委員から構成された会が発足しました。特定の庁舎もなく、収容所内の委員の個人宅が使用された応急的な機関でしたが、住民自治としての大切な一歩を踏み出しました。

当時は沖縄戦の結果、沖縄県庁は壊滅しており、沖縄では行政機関が機能していなかったので、早急に求められていました。

米国軍政府 … 1945年に沖縄上陸を開始したアメリカ軍により設立された軍政機構のことで、1950年12月まで存在しました。1946年7月には統治権が海軍から陸軍へ移行されました。

9月には戦後初めての市議会議員選挙が行われました。25歳以上の男女の選挙権が与えられました。女性に選挙権が与えられたことは当時日本では画期的なことでした。

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終戦直後【1946年~1947年】

1946年(昭和二十一年)4月24日、米国軍政府の指令により、沖縄諮詢会は沖縄民政府みんせい ふ (発足直後の名称:沖縄中央政府)に改められました。

沖縄民政府の知事には、沖縄諮詢会の委員長だった志喜屋孝信 し き や こうしんが任命されました。また知事の諮問機関として沖縄議会も設置されました。この議会はかつての県議会議員を中心に構成されていました。この議会は通常の議会とは異なり、予算などに関しては権限のない機関で、知事の諮問に応じる権限しかありませんでした。

1947年(昭和二十二年)、宮古支庁は宮古民政府、八重山支庁は八重山民政府に改められました。

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戦後【1948年~1952年】

1950年(昭和二十五年)9月から10月にかけて、沖縄・宮古・八重山・奄美で群島知事選挙・群島議会議員選挙が行われました。11月までには、沖縄群島政府、宮古群島政府、八重山群島政府、奄美群島政府の4つの群島政府が設立されました。これらは米国軍政府の布告に基づいたものでした。

1951年(昭和二十六年)4月、琉球臨時中央政府が設立されます。

さらに1年後の1952年(昭和二十七年)4月、全域を統括する中央政府として琉球政府が設立されました。これにより群島政府は廃止されました。それまでの沖縄民政府と異なり、立法(立法院)・行政(行政府)・司法(民裁判所)の三権を持っていましたが、米国民政府の管理下にありました。

米国民政府 … 1945年以来、米国軍政府が置かれ、軍政による統治が行われていましたが、1950年(昭和二十五年)に12月に、それに代わって民政による米国民政府が置かれました。

なぜ琉球政府が設立されたのですか?

群島政府では知事は住民によって選ばれていて、米国民政府に対抗する姿勢を見せていました。こうしたことに影響されて、沖縄でも日本復帰を求める声が次第に大きくなったためです。

上記の三権を持っていたものの、米国民政府には琉球政府の決定を最終的に破棄できる条件を持っていたので、相変わらずアメリカの意向は強いものがありました。アメリカとしては傀儡かいらい政府をつくり、操ろうと考えていましたが、すべてアメリカの思い通りになったわけではありません。

議会は選挙によって選ばれた議員で構成されたので、米国民政府の意向に反する決議(例:日本への復帰決議など)を毎年のように採りました。また、琉球政府設立の前年には日本復帰促進期成会も結成されていて、復帰を願う人々の署名を集める運動も行われました。こららのことは後の本土復帰への原動力となりました。

1951年(昭和二十六年)、サンフランシスコ平和条約が締結されました。この条約の第三条では、琉球諸島を含む南西諸島は、アメリカの施政下に置くことが明記されました。沖縄では条約が発効した4月28日を「屈辱の日」と呼んでいます。

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統治下の沖縄【1953年~1964年】

1953年(昭和二十八年)、旧鹿児島県にあった奄美群島が、日本に一足早く復帰しました。このことにより沖縄などの他の地域では、復帰への願いはさらに強くなっていきました。しかし、アメリカ側としては、沖縄などの扱いについては、この時点ではこの問題に触れないという姿勢を取りました。

1958年(昭和三十三年)、琉球列島における唯一の法定通貨がドルに切り替わりました。それまではB円が使用されていました。

B円 … 正式名称は「B型軍票」といいます。1945年からアメリカ占領下の沖縄で使われていたアメリカ軍が発行していた軍用手票です。1948年から1958年まで唯一の法定通貨でした。最高額は千円券で、合計8種類の券がありました。

1959年(昭和三十四年)、米軍の戦闘機が石川市(現在のうるま市)の宮森小学校に墜落し、児童を含む18名の死者(後遺症で亡くなった人も含む)を出す大惨事となりました。さらに1961年(昭和三十六年)、具志川の川崎に米軍のジェット機が墜落し、2名の死者が出ました。これ以後も米国機による事故は相次ぎます。

1960年(昭和三十五年)、沖縄県祖国復帰協議会(略称:復帰協)が結成され、毎年4月28日を「沖縄デー」と称し、デモ行進や集会が行い、復帰要求のために県民運動を主導しました。

1962年(昭和三十七年)、アメリカのケネディ大統領は、沖縄(琉球)が日本本土の一部であることを認める発言をしました。さらに沖縄への経済援助に関する取り決めを日本側と協議することなども発表しました。日本側はケネディの言動を歓迎しました。一方で米国軍では、日本政府の関与が深まることへの警戒が強まりました。

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本土復帰へ【1964年~1972年】

1965年(昭和四十年)、佐藤栄作えいさく首相が沖縄を訪問して復帰への決意を語りました。「沖縄の返還なくして日本の戦後は終わらない」という演説を残しています。訪問時、首相を歓迎する一方、これまでの沖縄に対する扱いに対して抗議デモも起こりました。

沖縄返還を重点政策に掲げていた佐藤首相は、1967年(昭和四十二年)に訪米し、ジョンソン大統領と会談し、2~3年以内に返還時期を決める(2~3年以内に返還という意味ではない)ことを合意します。地道にですが着実に本土復帰に向けて進んでいきます。

佐藤栄作 … 第61代~63代(1964年~1972年)に内閣総理大臣を務め、長期政権を担いました。1974年にノーベル平和賞を受賞しました。

1968年(昭和四十三年)3月日米琉諮問委員会にちべいりゅうしもんいいんかいが発足しました。この委員会は、琉球政府・日本政府・米国政府の三者の代表から構成されていて、沖縄の日本復帰に備えて、本土との一体化を進めるための調整が行われていくことになりました。5月には、日本政府の沖縄事務所も設置され、本土復帰の準備に関わる事務や調査が本格的に行われるようになりました。

同年の夏の甲子園で、興南こうなん高校が沖縄県勢で初めて準決勝(ベスト4)に進出します。首里しゅり高校が沖縄県勢で初勝利を挙げてから5年後の快挙でした。このとき、球児たちが持ち帰ろうとした甲子園の土に関しては、当時の法律により島への持ち込みが認められず、那覇上陸目前に船上から廃棄されたこともニュースになりました。この出来事は、沖縄が依然としてアメリカの占領下にあるという現実を思い知らせました。

1969年(昭和四十四年)11月、再び訪米した佐藤首相はニクソン大統領と会談し、両者による共同声明が発表されました。これにより、沖縄の本土早期復帰のために協議に入ること、さらには1972年中に復帰することを目標とすることになりました。こうして悲願であった本土復帰が目前となりました。

1970年(昭和四十五年)11月戦後初の国政選挙が行われ、沖縄から衆議院・参議院議員が誕生しました。こうして25年ぶりに沖縄代表の国会議員が国会に送り出されることとなりました。

1971年(昭和四十六年)6月、「琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」いわゆる「沖縄返還協定」が調印されました。東京とワシントンで同時に調印式が行われ、衛星中継で放送されました。こうして返還実現への道筋が付けられましたが、米軍基地を維持することや日本側が対米請求権を放棄することなどが明記されました。

日本復帰にあたっては、米軍基地に関して、県民の不安大幅に軽減することを求めてきましたが、県民の切実な要望が反映されませんでした。

1972年(昭和四十七年)5月15日沖縄返還協定の効力が発生し、27年ぶりに本土に復帰しました。この日、日本政府主催で沖縄復帰記念式典が東京と那覇で同時に開催されました。この昭和天皇がご臨席された式典では、先の大戦で祖国復帰を待たずして亡くなった人々の冥福を祈るための黙祷が行われました。

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