概要
毎年5月3日は憲法記念日です。この日は国民の祝日に定められています。
「国民の祝日に関する法律」の中で、「憲法記念日」は次のように定義されています。
日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する。
日本国憲法は、1946年(昭和二十一年)11月3日に公布、翌年の1947年(昭和二十二年)5月3日に施行されます。
ちなみに法律用語としての「公布」は、成立した憲法・法律・条令などの内容を官報などで公に知らせる行為のことで、「施行」は、それらの効力が実際に発生し適用が始まることを指しています。
日本政府による改正案
1945年(昭和二十年)9月2日、日本政府は降伏文書に調印し、ポツダム宣言を受諾します。これをもって日本はGHQの占領下になりました。
GHQ … 正式名称は連合国最高司令官総司令部で、総司令官はダグラス・マッカーサーです。
宣言の受諾にさいしては、天皇及び日本政府はマッカーサーに隷属することが条件でしたが、最終的な統治形態は日本国民の自由に表明する意思による決定されるべきであるとの考えが示されました。これを受けて日本側としては、天皇に関することも含めて、日本国民の意思によって憲法改正を行えると見通していました。
またこの宣言には憲法改正の要求は含められていませんでした。このことから、日本側としては大正時代の民主主義的風潮さえ復活されれば、憲法改正自体は不要であって、現憲法のままでも民主主義化ができるとの楽観的な意見がありました。
この頃、終戦直後に成立した東久邇宮内閣が総辞職し、幣原喜重郎内閣が成立します。新内閣成立とともに、政府はマッカーサーの依頼を受けて憲法の調査・研究を開始します。これにより10月25日に「憲法問題調査委員会」を設置しました。委員長は国務大臣の松本烝治でした。
当初委員会は憲法改正を目指していたわけではなく、あくまでも調査・研究でした。幣原自身も改正には消極的でした。しかし、やがて改正を視野に入れた動きが出てきます。1946年(昭和二十一年)1月、憲法改正のための私案を作成しました。これを松本試案(正式名称:憲法改正要綱)といいます。
GHQが改正案を拒否する
2月8日に松本案がGHQに提出されます。しかし提出直前の2月1日、毎日新聞が1面で試案内容に関するスクープ記事を出しました。結局この試案は松本案そのものではなかったのですが、毎日をはじめとする各新聞は、保守的な松本案に対しての批判を展開しました。
毎日新聞によってスクープされた案は、委員会のメンバーの一人である宮沢俊義によって私的に作成されたものでした。機密情報が漏れてしまった経緯については、いくつかの説がありますが、現在でも不明のままです。
毎日新聞のスクープ記事が無ければどうなっていましたか?
歴史に「たられば」はありませんが、GHQの対応が遅れ、アメリカ以外の中国・ソ連などが参加していた極東委員会の憲法制定への関与が強まり、天皇制廃止へと進んだ可能性があるという見方もあります。一方で、アメリカによる主導権はすでに確立されていたので、何も影響はなかったという見方もあります。
GHQはこの記事や世論の反応などから、日本政府による自主的な憲法改正には限界があるとの見方を強め、GHQ独自で草案を作成する決断をしました。
2月3日、マッカーサーは極秘裏にコートニー・ホイットニーに対して憲法改正案の作成を指示します。このとき彼は、憲法草案に盛り込むべき必須要件として3項目を提示しました。これを「マッカーサーノート(マッカーサー3原則)」といいます。
大まかには以下のような内容でした。
- 天皇は国の象徴とし、主権は国民にあること。
- 戦争を放棄すること。軍備も持たないこと。
- 貴族制度などの封建制を廃止し、平等な社会にすること。
起草にあたったメンバーの中には、憲法学の専門家がいなかったので、日本の民間憲法草案や世界各国の憲法を参考にしました。ホイットニーの指導のもと、10日間ほどの短期間で一気に草案はまとめられました。こうして2月12日に完成し、マッカーサーはこれを承認します。
これをGHQ草案またはマッカーサー草案といいます。
コートニー・ホイットニー … 日本の降伏後、マッカーサーともに日本に来ました。GHQの民政局の局長を務め、GHQとしての新憲法の草案作成を指揮しました。
2月13日、すでに提出していた松本案についての回答を得るために、松本と吉田茂外務大臣はGHQを訪れますが、そこで予想外の対応をされます。回答どころか、逆にホイットニーから「GHQ草案」を突き付けられます。
さらに「明治憲法の焼き直し」との烙印を押された松本案に対する問題点も指摘されましたが、以下のような内容でした。
- 日本政府の改正案はGHQとしては受け入れがたいこと
- この改正案では天皇の地位を保障することが難しいこと
- GHQ草案の基本原則取り入れた改正案を速やかに作成すること など
また、GHQ草案には戦争放棄についても含まれていました。これについては、世界中を探してもこのような憲法は見られないことで、政府としても受け入れ難いことでした。
あまりにも突然のことに驚いた松本と吉田は、いったん草案を持ち帰ります。2月18日に政府は松本案について、さらなる説明を加えようとしましたが、ホイットニーは完全に拒否します。それどころか厳しい言葉をもって、GHQ草案を48時間以内に回答するように強く迫りました。
GHQの厳しい姿勢を受けた政府は、2月26日にGHQ草案の事実上の受け入れを決定し、草案に沿った新しい政府案を作成することにしました。また戦争放棄についても、マッカーサーの強い意志により受け入れざるを得ませんでした。こうして即日作成に着手します。
新しい政府案の作成
この先に出てくる「政府案」や「改正案」は、初期の政府案(松本案)のことではなく、GHQ草案を受け入れた上で作成された新しい政府案のことを指します。
松本は迅速に作成作業を行い、わずか数日間で憲法改正草案が完成させ、3月4日午前にGHQに提出されます。これを受け取ったGHQは、政府との間で条文を一つずつ審議し、英語への翻訳作業も行います。夜通し行われ、3月5日午後3時までに作業は全て終了し、幣原と松本が参内して昭和天皇に奏上しました。
参内 … 天皇のお住まいになられている所に参上すること。
奏上 … 天皇に何かを申し上げること。
3月6日、政府はこの案をもとに「憲法改正草案要綱」を発表し、マッカーサーもこれを承認します。しかしこの草案が、GHQ案をベースにしたものであることは国民には知らされませんでした。
要綱 … 憲法改正に関する大まかな方針や枠組みを示したもの。一般的には法的拘束力はありません。
新しい政府案の発表後、戦後初の衆議院議員総選挙が行われます。
選挙前の1月4日には、GHQは政府に対し、軍国主義的な団体の解散と、平和に反するような好ましくない人物を政府から一掃するように命じます。このような公職追放令により、GHQ政策にとって邪魔な勢力を排除して、占領政策を前に進めることを狙ったのです。
追放令により、戦時中の総選挙で東条英機内閣の戦争遂行政策を支持した立候補者は、次の選挙でも立候補できなくなりました。さらに国会議員のうち、およそ80%が公職追放を受けました。また幣原内閣でも次々と追放処分を受ける事態となりました。こうして政界は大混乱に陥りました。
こうした事情もあって立候補者たちは、GHQに対する警戒もあって、憲法改正について言及することはほとんどありませんでした。繊細な話題を取り上げることによってGHQに目を付けられることを恐れたのです。こうした中、4月10日に戦後初の衆議院選挙が実施されました。
4月初めから作家で貴族院勅選議員だった山本有三によって口語体の作業が極秘裏に進められ、4月17日に「ひらがな口語体」の「憲法改正草案」が発表されます。これまでの憲法や法律は「カタカナ文語体」が当たり前であったことを考えると画期的なことでした。これまではこのような類の文章は大変読みにくいものでしたが、新しい時代に合わせて、誰もが読みやすい平易なものとなりました。
貴族院勅選議員 … 貴族院は皇族議員や華族議員がいましたが、それ以外にも国家に尽くした功績がある人物(満30歳以上の男子)から選ばれた勅選議員で構成されていました。
6月~10月にかけて、帝国議会(第90回帝国議会)で政府案が審議されました。審議といっても、GHQへ事前に話を通しておく必要があり、議員らはGHQの意向に逆らうような言動はできませんでした。また、審議中にもGHQの修正指示が度々入りました。
- 6月25日から衆議院では審議が行われました。憲法改正特別委員会小委員会を設置して、審議が行われました。日本共産党や無所属クラブが反対したものの、賛成票421、反対票8で採択されました。
- 続いて貴族院でも審議が行われました。憲法改正は自らの院廃止となることを意味するにも関わらず、GHQに対抗する目立った動きもなく、10月7日に可決されました。
さらに衆議院と貴族院を通過した改正案は、10月29日に枢密院で可決されました。
枢密院 … 天皇直属の最高諮問機関。日本国憲法施行により廃止されます。
同日の閣議では、公布をいつにするかについて議論がありました。公布日を決めることは、自動的に半年後の施行日も設定されることになります。そのために施行日のタイミングを睨みながらの判断となりました。
11月1日にすると、5月1日のメーデーと重なってしまいます。11月5日にすると、5月5日になりますが、この日は男子の節句の日で、男女同権の新憲法にはふさわしくないとのことで、その間を取って5月3日の施行日とすることにし、その半年前の前年11月3日を公布日とすることに決めました。ただし11月3日は「明治節」であったこともあり、新時代の憲法公布日としては、ふさわしくないとの意見もありましたが、最終的にGHQに受け入れられました。
こうして11月3日に公布されました。この日は天皇が貴族院の記念式典に臨席し、勅語を朗読しました。現在この日は「文化の日」となっています。
施行に向けて
公布翌日、政府は「新憲法の公布を機とし、その精神の普及徹底を期すると共に、教育、文化、経済等に関し政府の抱懐する当面の施策の基本を宣明し、之が実現に付国民諸君の協力を要請する」(総務省統計局HPより)という声明を発表します。
12月1日、GHQにより指導のもと、政府は「憲法普及会」を創設します。この会には次のような目的がありました。
新憲法の精神を普及徹底し、これを国民生活の実際に浸透するよう啓発運動を行うこと。
新憲法を普及させるために、関連する楽曲・映画・カルタ・出版物が製作されました。さらにはできる限りメディアも利用され、普及活動が展開されました。
予定通り、1947年(昭和二十二年)5月3日、日本国憲法が施行されました。この日、皇居前広場において、「日本国憲法施行記念式典」が開催されました。またこの日の午後には、憲法普及会による「新憲法施行記念祝賀会」も盛大に行われました。


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