PR

【雑学】5月1日 日本赤十字社創立記念日

スポンサーリンク
雑学Q&A
記事内のリンクには広告が含まれています。
スポンサーリンク

概要

5月1日は「日本赤十字社創立記念日」です。この日は、1877年(明治十年)に日本における赤十字社の前身である「博愛社」が設立された日です。

現在の日本赤十字社に改称されたのは、1887年(明治二十年)になります。

スポンサーリンク

赤十字とは?

1859年、スイス人の実業家であるアンリ・デュナンは、自身が手掛けていた事業の支援を請願するために、ナポレオン三世に会いに行きます。そこで、イタリア統一戦争の激戦地で多くの死傷者が放置されている惨状を目の当たりにしました。

デュナンは救援活動を行っている地元の人々とともに、死傷者のために懸命に救護しました。彼は敵味方関係無く救護しました。なぜ敵も助けるのかと尋ねられたデュナンは、「人類はみな兄弟」という言葉を残したといわれています。

スイスに戻ったデュナンは、イタリアでの経験をもとに出版した本1862年)の中で、「敵・味方関係なく救護すること」「救護団体を平時から組織しておくこと」「このために国際的な条約を締結しておくこと」を訴えました。この訴えをもとに、1863年2月、「国際負傷軍人救護常置委員会(通称5人委員会/ICRCの前身)」が発足しました。

1864年には、ヨーロッパ16ヶ国が集まって、赤十字規約が採決された後、最初のジュネーブ条約(正式名称:傷病者の状態改善に関する第1回赤十字条約)が調印されました。この条約に基づき赤十字国際委員会(ICRC)が誕生しました。

ジュネーブ条約 … 武力紛争のさいに、人々を保護するための条約の総称です。これらの条約では、「戦場で負傷したり病気になった兵士」「捕虜になった軍人」「戦闘に直接参加していない民間人」に対して、人道的な扱い(医療行為を受けさせること、残虐な扱いをしないこと)を義務付けています。1864年に最初のジュネーブ条約が締結されました。

こうした功績が認められて、晩年には第1回ノーベル平和賞を受賞します。

デュナンが活動し始めた頃、従軍看護師だったナイティンゲールが、近代看護の育成のために立ち上がっていました。彼女の活躍もデュナンに影響を与えたといわれています。

赤十字のマークは、デュナンの母国であるスイスの国旗の赤色と白色の配色を逆にしたものです。また5月8日は「世界赤十字デー」となっています。

スポンサーリンク

日本初の赤十字活動

1868年(慶応四年)の戊辰ぼしん戦争では、榎本武揚えのもとたけあきらの旧幕府軍が箱館に「蝦夷えみし共和国」という政権を立ち上げました。この戦争で旧幕府側の医師として参加していた高松凌雲りょううんは、武揚の依頼で箱館病院(野戦病院)を開設します。

ここでは敵味方の区別をすることなく、あらゆる者に治療を行いました。この前年に凌雲はパリ留学をしていました。留学先では貧しい人々ための無料の病院を目の当たりにしており、こうした人道的な活動が彼に大きな影響を与えました。

このような敵にも手を貸す行為には当然反発もありましたが、凌雲は毅然とした態度で自らの信念を貫きました。結果として多くの者を救うことができました。

これらの活動は日本における最初の赤十字活動だったともいわれています。

スポンサーリンク

博愛社の設立

1877年(明治十年)2月、西郷隆盛らによって西南戦争が起こりました。戦地からの惨状を聞いていた佐野常民つねたみは、海外の赤十字社の活動を手本にして、戦いで傷付いた全ての負傷者を助けたいと思っていました。

そこで常民は、同じ思いを持っていた元老院議員の同僚の大給恒おぎゅうゆずると連名で、4月に政府に博愛社設立の請願書を政府側の岩倉具視ともみ右大臣に提出します。具視もこの考えに賛同します。

請願書の中には以下のような社則が含まれていました。

  • 本社の目的は戦場で負傷者を救援することで、戦時に一切干渉しないこと。
  • 本社の資金は、社員の拠出金と有志者の寄付とすること。
  • 本社が雇用する医員、看護人は、服の上に特別標章を着け、遠くからでも識別できるようにすること。
  • 敵人負傷者であっても救える者は救うこと。
  • 陸海の軍医長官の指揮に従うこと。

しかし、請願書は受理されることはありませんでした。具視に対応した政府軍の西郷従道じゅうどう(隆盛の弟)からは、「考えそのものは素晴らしいが、実現は難しい。平時によく考えて、あらかじめ整備することが良い。」とのことで、結局は却下されました。

そもそもこの戦いは明治政府と旧士族たちの争いだったので、政府としては、自分たちに反抗する者たちを救うことに難色を示したのでしょう。またこの戦いで兄弟分かれて対立していた従道の微妙な立場では、このように応えざるを得なかったものと思われます。

それでも常民らの理想は実現に動きます。彼らの趣旨に賛同した山縣有朋やまがたありともらが、当時政府軍のトップを務めていた有栖川宮熾仁親王ありすがわのみやたるひとしんのう取り次いでくれます。直訴に近い形でしたが、有栖川宮はその立派な志に共感し、5月1日常民らの申し出を許可します。

山縣有朋(山県有朋)… 明治政府では、陸軍の創設のために中心的な役割を果たします。また後に、内務大臣や二度にわたる内閣総理大臣としても活躍しました。西南戦争当時は陸軍卿(現在の陸軍大臣)でした。

有栖川宮熾仁親王 … 江戸時代末から明治時代にかけて活躍した皇族で、第9代有栖川宮家当主を務めました。親王は戊辰戦争のさいには、官軍(新政府軍)の総指揮官として重要な役割を果たしました。その後日本陸軍の整備にも深く関わります。

6月下旬から博愛社の活動を開始します。また常民は資金を工面した上で、熊本、長崎、宮崎、鹿児島などで救護活動を展開し、10月末まで続けます。ここに日本で初めての赤十字社の前身となる組織が誕生したのです。

先に出てきた凌雲は、博愛社の設立に発起人としての誘いがありましたが、赤十字が軍部と関わりがあることに納得がいかず、断っています。しかしこの戦いでは再三協力を要請された結果、病院を訪れて、負傷者の治療にあたりました。

戦後、博愛社を解散して、有事の際に改めて設立することも考えられたが、恒久的な機関としてそのまま存続させることになりました。

1886年(明治十九年)11月には、博愛社としての自前の病院が開院します。開院当初は「博愛社病院」でしたが、後に「日本赤十字社病院」へと改称されることになります。この病院では先進的な医療が行われ、日本初となる耳鼻科も開設されることになります。

スポンサーリンク

日本赤十字に改称する

博愛社設立当初から、政府によるジュネーブ条約の承認と赤十字社への加入を望んでいましたが、組織整備のために余裕がありませんでした。1886年6月5日政府はジュネーブ条約を承認し、日本も条約に加盟します。

これをもって1887年(明治二十年)5月20日、「日本赤十字社」に改称されます。9月には日本赤十字社を国際赤十字社として公認されることになりました。

1888年(明治二十一年)、福島県磐梯山ばんだいさんが噴火して、多くの死傷者が出ました。もともと日本赤十字社は戦時での救護を目的としていましたが、当時の皇后から救護班を派遣するようにとの内旨ないしが伝えられました。これ以降災害救護の派遣も行われるようになりました。これは赤十字による最初の災害救護であったともいわれています。

1896年(明治二十九年)までには、すべての府県に支部が設置されていました。

スポンサーリンク

佐野常民はどんな人物?

常民は、1823年(文政六年)に佐賀藩に生まれます。幼い頃に藩医の家の養子に入ります。成長して佐賀藩校・弘道館こうどうかんで学びます。探求心のあり、勉学にも熱心であった常民は外科術なども学びます。途中で江戸でも学んでいたようですが。九州に戻ってきます。

弘道館 … 1781年(天明元年)、佐賀8代藩主鍋島治茂なべじまはるしげのとき、藩校として佐賀城そばに建てられました。儒学や藩の歴史、武道などを教えられました。この藩校出身者として、大隈重信、江藤新平などがいます。

1855年(安政元年)、幕府が開設した長崎海軍伝習所に第一期生として参加します。さらにその数年後には三重津海軍所の監督にもなって、蒸気船の修理・造船、西洋式ボイラー製作に携わります。このようにして日本海軍の近代化のために尽くします。

1867年(慶応三年)、西洋の技術に触れるために、パリ万国博覧会に参加します。ここで国際赤十字の組織を見聞きします。このときの経験が後の活動に影響を与え、人道的な活動にも関心を持つようになります。ちなみに先述の凌雲も、この博覧会に参加していました。

1873年(明治六年)、ウィーン万博の事務副総裁に就任して、万博に派遣されます。このような機会によって日本の近代化に貢献し、「博覧会男」と呼ばれます。

博愛社を設立後は、明治政府で政治家としても活躍します。大蔵大臣、元老院議長、農商務大臣などを歴任します。薩長の影響力が大きかった時代に、佐賀藩出身として際立った才能を見せました。

常民の、海軍や政治家などの多岐にわたるキャリアを考えると、博愛社を設立したことは少し異例に見えるかもしれません。しかし、もともと新しいことに探求心があり、さらには海外の進んだ制度や価値観も見聞きすることにより、国際感覚が養われていったのです。こうしたことが人道的な活動を柱とする赤十字活動へと彼を導いたのです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました