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【雑学】5月1日 メーデー

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雑学Q&A
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概要

メーデー(英語表現:May Day)」とは、毎年5月1日に世界各地で行われる労働者の祭典です。「国際労働者の日」とも呼ばれています。この日は、世界各地の労働者が、労働に関する権利を要求するために行進や集会を行います。

また、欧米をはじめ世界80以上の国で祝日となっていますが、日本は祝日ではありません。理由としてはゴールデンウィークの祝日に近いことや、毎年11月23日には「勤労感謝の日」が設けられているためといわれています。

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起源

ヨーロッパでメーデーは、もともと五月祭を意味していました。

五月祭とは古代ローマの祭に由来していて、新しい季節を祝う祭りがヨーロッパ各地で行われていました。5月1日には、ローマ神話に出てくる豊穣の女神マイアを祭り供え物が捧げられました。このようにして豊穣が願われました。

この祭りでは、使用者(雇う側)も労働者(雇われる側)も争いごとがあっても休戦し、ともに祝うのが習慣でした。このような背景が後のメーデーつまり労働者のために日へと発展していきます。

現在でもヨーロッパ各地では、夏の訪れを祝う日として定着しています。

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アメリカで始まった

1886年5月1日、アメリカのシカゴで1日12時間以上の勤務が当たり前だった劣悪な労働環境に痺れを切らした労働者たちが、ストライキを起こして8時間労働を実現を要求したのです。これ以降メーデーは労働者たちが権利を主張する日へと変貌していきました。アメリカの労働者たちは、「8時間は働くため、8時間は休息のため、8時間は好きなことのため」という趣旨の歌で訴えながら、8時間労働の約束を勝ち取りました。

5月4日、勢いづいた労働者は、シカゴの広場で騒動を引き起こします。それに武装警官が応戦し、死傷者を出す惨事となりました。しかも4人の労働者たちが証拠も不十分なまま、騒動の首謀者として死刑になってしまいます。これをヘイマーケット事件と呼びます。

これに対して労働者も黙っていませんでした。この事件を忘れないために、1888年に、近い将来にゼネラルストライキなどの行動を取り組みことを呼びかけます。それに備えるように1889年7月、19ヶ国の労働者の代表によって労働組合・社会主義運動の国際組織である「第2インターナショナル」が結成されました。そして、5月1日を「法律で8時間労働日を決めるよう要求する国際的に統一行動を取る日とする」ことに決めました。

第1インターナショナルは、1864年にマルクスらの指導によってロンドンで結成された世界初の労働者の国際組織のことで、正式名称は「国際労働者協会(IWA)」です。各国に支部があったものの、組織としては一枚岩ではありませんでした。その後の内部分裂と政府による弾圧もあって、1870年代には活動が停止しまが、この後も、労働者の活動は途絶えたわけではありませんでした。第2インターナショナルの結成につながります。

予定通り、1890年に多くの国で第1回メーデーが実施されます。これが今日に続く労働者の祭典としての起源となったわけです。

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日本におけるメーデー

大正時代に日本でもメーデーが始まります。その後の戦前から戦後にかけての日本におけるメーデーについて振り返ります。

戦前

1905年(明治三十六年)、平民社へいみんしゃ主催で開かれた茶話会さ わ かいが、日本におけるメーデーの先駆けといわれています。また1917年(大正六年)5月7日には、社会主義者数十人がメーデーを記念する集まりを開催しました。しかしまだこれらは本格的なメーデーとしての規模はありませんでした。

平民社 … 1903年に幸徳秋水こうとくしゅうすいらが設立した社会主義・反戦運動の団体です。

茶話会 … お茶や軽食を囲みながら、参加者同士が語り合い交流する小さな集まりのことです。

その頃、第一次世界大戦からの空前の好景気(大戦景気)が終わりを迎えます。1920年に入ると、景気後退により多くの企業が倒産します。社会が不安定になると、真っ先に影響を受けるのは立場の弱い人々(労働者たち)です。そのような社会状況の中で労働者などが立ち上がります。

1920年(大正九年)5月2日、東京・上野公園で第1回メーデーが行われました。およそ5,000人の労働者が集まり、以下のようなことを訴えました。翌年からは現在のように、5月1日に行われるようになりました。

  • 治安警察法17条の撤廃
    ストライキなどを事実上禁止した条文だった
  • 八時間労働の実施
  • 失業の防止
  • 最低賃金法の制定の要求
    実際に施行されたのは戦後の1959年(昭和34年)になります。

1936年(昭和十一年)、二・二六事件が発生します。この事件により戒厳令が敷かれ、治安維持のために、集会・運動などに関して中止するように指示が出されます。これにより第17回メーデーは禁止されました。当日は小規模ながらも全国各地でさまざま集会やデモは行われたものの、大規模なものはありませんでした。結局この年から終戦の1945年(昭和二十年)の10年間は、戦争激化により開催されることはありませんでした

戦後

終戦による社会の混乱と深刻な食料不足の中、「働けるだけ喰わせろ」というスローガンの下、1946年(昭和二十一年)、11年ぶりの第17回メーデーが改めて開催されました。全国で100万人が参加し、そのうち数十万人は東京・皇居前広場に集まりました。5月19日には「食糧メーデー(飯米獲得人民大会)」が行われ、食糧の確保を要求しました。

GHQによる実質的な占領体制が終わった直後、戦後初めてのメーデーを迎えます。

1952年(昭和二十七年)の第23回メーデーでは、サンフランシスコ平和条約や日米安保条約への抗議も行われました。このとき皇居とその周辺で暴徒化したデモ隊と警察隊が衝突し、2人が亡くなり、多くの負傷者が出る惨事となりました。これを「血のメーデー事件」といいます。

1989年(平成元年)以降、労働組合の再編による組織対立によって、統一されたメーデーの開催ができなくなりました。

現在は、「日本労働組合総連合会(連合)」「全国労働組合総連合(全労連)」「全国労働組合連絡協議会(全労協)」がそれぞれに開催しています。そのうち連合は2001年(平成十三年)以降は、4月の最終土曜日もしくは昭和の日に行うようになっています。

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