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【歴史】4月11日 江戸城無血開城の日

学習Q&A 歴史
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概要

戊辰戦争最中に、西郷隆盛と勝海舟らの交渉によって戦闘無しで江戸城が新政府軍に明け渡された出来事です。「江戸城明け渡し」ともいいます。

慶応(元号)… 江戸時代最後の元号です。1865年から1868年の明治改元まで使われました。

これによって、結果的に江戸城とその周辺に犠牲者を出すことなく、平和的な方法で政権が移行されました。

以下に出てくる日付は旧暦です。

戊辰戦争が起こる

1868年(慶応四年)1月27日の「鳥羽と ば 伏見ふし み の戦い」によって、薩摩藩・長州藩が中心の新政府軍と徳川家が中心の旧幕府軍による戊辰ぼ しん戦争が勃発します。それ以降各地で激しい戦闘が繰り広げられていきます。この戦いまでに海外からの技術や兵器を取り入れていた薩摩藩と長州藩は、兵士の数で劣っていたものの、近代的な軍事力で旧幕府軍を打ち破り、徳川慶喜よしのぶは滞在先から江戸に戻ります。

敗戦を受けて、幕府側では徹底的に抗戦する主戦論か、新政府に従う恭順きょうじゅん論で意見が真っ二つに分かれます。慶喜としては新政府に恭順の意思を示したかったので、主戦派を次々と退けて、順派で徳川家の人事を固めます。

この中で、陸軍総裁であった勝海舟らが実質的に徳川家を統率する存在となり、恭順論の下で対応が進められていくことになります。数年前の長州征伐に携わり、当時幕府側だった薩摩藩の西郷隆盛とも繋がりがあった海舟は適役だったのです。隆盛は海舟の政治姿勢や人物像を評価していました。

恭順 … この場合の恭順とは、朝廷に従うことを意味しています。

こうした中、徳川慶喜は江戸城を徳川慶頼よしよりと松平斉民なりたみに任せ、自身は2月12日上野にある寛永寺で謹慎生活に入ってしまいます。

なぜ慶喜は謹慎生活に入ってしまったのですか?

武力によって状況を打破することが、もはや不可能と考えた慶喜は、朝廷の敵とされることを恐れて、明治天皇への恭順を示すために謹慎生活に入ったものと考えられています。

徳川家と寛永寺は、どのような関係だったのですか?

徳川家康、秀忠ひでただ家光いえみつの将軍三代にわたって将軍の帰依きえを受けた天海大僧正てんかいだいそうじょうによって創建されました。江戸幕府と万民の平安を祈る祈願寺として、幕府と密接な関係にありました。徳川歴代将軍15人のうち、6人のお墓があります。「寛永」とは創建時の元号から取られています。

これを受けて新政府側でも、さらに幕府側への徹底的に追い込みをかけようという薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通らの強硬派と、寛容な処分で済ませようとする長州藩の木戸孝允らの穏健派が入り混じって、徳川家の処遇について練られました。

会談までに

2月15日に、隆盛が京都を出発します。途中、駿府すん ぷ (今の静岡県)に入った東征とうせい軍は江戸城突撃を「3月15日」と決定します。それと同時に降伏条件を突き付けて、慶喜に受け入れるように促します。

旧幕府側としても、最悪の事態を避けたいと考えていました。そこで、恭順の意思があることを新政府側に知らせるために行動に出ます。

3月9日、慶喜は山岡鉄舟を使者として遣わし、駿府で隆盛と対面をさせます。ここで隆盛は旧幕府側の慶喜の助命と徳川家の存続に対して降伏条件を提示します。その条件の中でも、慶喜の扱いに関しては旧幕府側にとって受け入れがたいものでした。

これに対して鉄舟は、毅然とした態度で隆盛に「あなたの主君が同じ立場になったら、他藩に預けるのか」と言い放ちました。隆盛も他の条件と引き換えに、その条件に関しては諦めることにしました。鉄舟はこの話を江戸に持ち帰り、海舟と隆盛の直接会談を設定します。

隆盛が示した降伏条件は以下のようなものでした。

  • 徳川慶喜を備前藩(岡山)へ預けること
  • 江戸城を明け渡すこと
  • 軍艦をすべて引き渡すこと
  • 武器をすべて引き渡すこと
  • 城内に居住している者を向島へ移すこと
  • 慶喜の暴挙を補佐した人物を処罰すること
  • 暴発する者たちがひどい場合は、新政府軍が鎮圧すること。

旧幕府側としては、他の条件はともかくとして、慶喜を新政府側の備前藩に引き渡すことは絶対にできないことでした。引き渡すことは敵方のトップとして殺される可能性があったからです。

山岡鉄舟 … 別称「鉄太郎」ともいいます。幕末~明治初期に活躍した剣客・政治家です。江戸幕府の講武所で剣術を教え、慶喜の警固役として活躍しました。

勝海舟と西郷隆盛による会談

3月11日に西郷らは駿府を出発し、3月13日には江戸・高輪たかなわの薩摩藩邸に到着します。江戸総攻撃の日が明後日にせまっていました。

そのような緊迫した中、3月13日に薩摩藩邸で一回目の会談が行われます。この会談に先立って新政府側(薩摩藩)のイギリス公使のハリー・パークスが、江戸の総攻撃を回避するように新政府側に圧力をかけます。イギリスとしては、これからの日本との関係を考え、江戸が焦土に帰することは本望ではなかったのです。また隆盛としても新時代の政府を代表する立場として、外国との良好な関係は無視できないものだったのです。

海舟と隆盛の会談は、二人だけで行われたようなイメージがありますが、実際には彼ら以外に、新政府側と旧幕府側から他の者も同席していたと考えられています。また高輪の薩摩藩邸で本当に行われたかどうかについては確証はありません。

この会談では、以前示した降伏条件の確認と14代将軍・徳川家茂の和宮かずのみやの扱いが議題にのぼりました。攻撃が起こった場合に和宮の安全がどうなるかについての話を持ち出したのです。話の内容はこれくらいで終了します。

和宮 … 第120代仁孝にんこう天皇の第八皇女で、第121代孝明こうめい天皇の妹にあたります。幕末における「公武合体こうぶがったい」の象徴として、第14代将軍の徳川家茂に降嫁こう か しました。「降嫁」とは皇女が皇族以外(この場合は将軍家)に嫁ぐことです。

ちなみにこのとき、海舟は新政府軍を江戸に誘い込んだ上で、江戸の町に火を放ち、軍もろともに焼き払う戦術を持っていました。

3月14日に同じく薩摩藩邸で二回目の会談が行われ、隆盛は以前示した降伏条件を提示します。それに対して海舟は、やはり慶喜の備前藩ではなく、慶喜の故郷である水戸へ移して謹慎させると回答し、備前行きを拒否します。その他の条件に対しても骨抜きの回答で、新政府側としては全面的に拒否されたも同然でした。

隆盛は旧幕府側のこのような態度に対して、怒って交渉を決裂させることはありませんでした。むしろ、いよいよ明日にせまった総攻撃を中止し、海舟が示した条件を京都に持ち帰って朝議ちょうぎにかけることにしたのです。

朝議 … 朝廷で、天皇や高官が集まり国政について評議・決定することです。

海舟が示した受け入れ条件は以下のようなものでした。

  • 慶喜は水戸で謹慎すること
  • 慶喜を助けた大名に対して寛大な処置をすること
  • 軍艦・武器はまとめて、寛大な処置が下された後は差し渡すこと。
  • 城内に居住している者を城外へ移して謹慎すること
  • 江戸城を明け渡しの手続きが終了した後は、田安家(徳川一門)へ返却すること。
  • 可能な限り、暴発者をおさめるために努力すること。

慶喜の処遇はもちろんのこと、他の条件に関しても、旧幕府側にとって少しでも有利に働くための対抗案でした。新政府としては、本来であれば受け入れがたい条件でした。

隆盛は京都に行き、3月20日に朝議にかけて了承を得ます。さらに江戸に戻った隆盛は、4月4日に江戸城に勅使一行が乗り込み、4月11日に東征軍が入城し、江戸城明け渡しが行われました。

同日、慶喜は江戸の寛永寺を出て、4月15日水戸に出発します。そこで、弘道館こうどうかん至善堂しぜんどうで謹慎生活に入ります。しかし水戸藩での政情不安を避けるために、7月には駿府へ移転します。

こうして隆盛の決断や、交渉に至るまでの鉄舟や海舟の努力や、イギリスからの外圧といった複合的な要因が絡まり、江戸は最悪の事態を免れました。結果として、一滴の血も流さないで、政権が移譲されました。実は「無血」という言葉は後に付けられたものですが、まさにその通りになったのです。

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