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【歴史】永仁の徳政令とは?

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徳政令とは

すでに締結された売買や賃借などの契約について、無条件または条件付きで、その契約関係の継続や破棄を宣言する法令のことです。

徳政とは … 元々、民衆のために恩恵を施す良い政治という意味がありますが、鎌倉時代以降、救済措置を行う政治のことを指すようになります。

徳政令は、鎌倉時代や室町時代に幕府や朝廷によって出されました。鎌倉時代と室町時代では、徳政令が持つ意味は変わりますが、この記事では鎌倉時代に出された「永仁の徳政令(えいにんのとくせいれい)」について取り上げたいと思います。

出された背景

永仁の徳政令はどのような背景で出されたのか、以下の2つの要素から考えてみましょう。

土地の相続制度が与えた影響

御家人の生活が苦しくなったのは、土地が関係していました。なぜそうなってしまったのでしょうか?

御家人とは … 鎌倉幕府成立後、将軍と主従関係を結んだ武士のことです。「御恩と奉公」という互恵関係によって結ばれました。

御家人の生活を支えていたのは土地でした。土地から得られる収入を基盤として活動していました。

しかし御家人が亡くなると、その土地は子どもたちに分割されることになります。遺産相続にもめごとは、いつの時代でもよくあることでしたが、この方法であればトラブルを避けられました。

戦が多い時代であれば、この制度は有効だったかもしれませんが、鎌倉時代は戦があまり頻発しませんでした。戦に勝てば、勝者は敗者から奪った土地を自分の支配地にして、広げることができます。しかし戦がなければ、奪う土地がないために支配地は広がりません。

広がらない土地のままなので、代を重ねるごとに相続地が細分化されていきました。結果的に一人当たりが所有できる土地は小さくなっていきました。

今でもそうですが、土地は財産であったので、所有できる土地が小さくなるということは、それだけ生活の基盤が弱くなることを意味していたのです。

蒙古襲来(元寇)が与えた影響

この状況に追い打ちをかけたのは、「蒙古襲来(元寇)」でした(この記事では「蒙古襲来」に統一します)。蒙古襲来の詳細に関しては、別記事をご覧ください。

蒙古襲来については、以下の記事をご覧ください。

【歴史】元寇 なぜ2度の蒙古襲来を防げたのか?
モンゴル帝国・元はどのように日本と接触しようとしたのでしょうか? 文永の役・弘安の役の戦況とそこに至るまでの経緯について解説します。

蒙古襲来で、御家人は幕府のために「奉公(ほうこう)」を尽くしました。それにも関わらず、それに値するような「御恩(ごおん)」がありませんでした。通常の戦では、御恩は敵方から奪った土地が原資になります。しかし、この戦は日本側の勝利に終わったものの、外国勢力(元)から日本を守るためだけであったので、御家人に与えられる土地がありませんでした

御家人は戦前から異国警固番役などの負担の重い役も任されて、九州沿岸の警備をしなければなりませんでした。さらに実戦になると御家人たちは命懸けで戦いに出かけました。激戦であったので多くの戦死者も出しました。このようにして奉公を尽くしました。しかしそれも御恩という報いがあるからこそ成り立つのです。それなのに期待は裏切られました。

もちろん幕府としては、与えられるものなら与えたかったのです。しかし無いものはどうしようもありませんでした。結果的にこうした裏切りによって、幕府に対する信頼が揺らいでいきます。将軍と御家人との主従関係あっての幕府ですから、このことは痛手となりました。

恩賞が不十分だった御家人たちの生活は困窮します。そのような苦境の中で生活を成り立たせるために、土地を売却したり、質に入れたりすることで、借金返済や生活費に充てました。取引相手になったのは、寺社や商人などの財政力のある人々でした。

しかし、そうした悪循環がいつまでも続くはずがありません。土地が失ってしまっては、生活の基盤を失うことを意味するからです。

このように御家人が弱体化していくことは、幕府の弱体化にも繋がるのです。幕府には御家人たちからの悲鳴にも似た叫びが殺到しました。

どんな法令だったのか?

ついに幕府が動きます。1297年(永仁五年)3月、鎌倉幕府の九代執権の北条貞時(ほうじょうさだとき)が御家人を救済するために発令しました。法令として出された徳政令としては、日本初だったといわれています。

鎌倉幕府の執権については、以下の記事をご覧ください。

【歴史】鎌倉幕府の執権とは? 北条氏との関係は?
鎌倉幕府の中で執権はどんな役割を果たしましたか。執権と北条氏の関係・実朝亡き後の将軍と執権はどんな関係だったかを解説します。

徳政令の内容は、以下のようなものでした。

①御家人の所領売買や質入れについては、今後は禁止する。
②以前に売却・質入れされた土地を、無償で元の持ち主に返還させる。
 ただし、御家人に売却した場合で、売却後20年以上経過した場合は返還不要とする。

③金銭の貸借に関する御家人への訴訟は受け付けない。
④越訴の停止

貞時が発令した徳政令については、正確な内容を知ることはできませんが、京都・東寺に収蔵されていた「東寺百合文書(とうじひゃくごうもんじょ)」の中に見ることできます。東寺百合文書とは約25,000通に及ぶ文書群のことで、古代~中世の政治・経済・社会に関する重要な史料となっています。国宝に指定されています。

質入れとは … 御家人がお金を借りるときに土地を質屋に預けて、それに相応する金額を借りることです。この仕組みによって、貸す側は、お金を確実に回収することができますし、借りる側は、融資を受けやすくなります。

越訴(おっそ)とは … 正式な手続きを経ずに再審などを求めて訴えを起こすことです。鎌倉幕府には「越訴方(おっそかた)」と呼ばれる専門機関が存在しました。永仁の徳政令によって一時的に廃止されました。

御家人に土地をただで返還させるということはあり得ないことでした。いくら御家人のためとはいえ、御家人と取引をしていた相手から見たら、たまったものではありません。しかし、幕府の命令なので、従うしかありませんでした。その結果どうなってしまったでしょうか?

どんな結果になったか?

この徳政令は御家人を救済することが目的だったので、一時的には効果がありました。

しかし土地の売買や質入れなどの関する契約を無効にするということは、経済に混乱を引き起こしました。相手から見たら、再び徳政令などによって、貸したお金を帳消しにされてしまうことを考えると、お金を貸すには相手としてはリスクが高すぎます。当然御家人には貸さなくなります。

こうして皮肉なことに御家人はお金を借りにくくなりした。徳政令が御家人を苦しめることになり、かえって生活が追い詰められます。

幕府は1年も経過しない内に徳政令を停止しました。それによって所領の売買や質入れが解禁され、訴訟も受け付けるようになりました。

徳政令は社会を混乱させ、御家人にとってもかえって苦しいままでした。このような大きな失政により、幕府が信頼を取り戻すことは大変厳しいものでした。

結局、誰にとっても得しない残念な結果となったのです。

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