どんな人物なのか?
豊臣秀長は豊臣秀吉の弟として1540年(天文九年)に尾張国(現在の愛知県名古屋市中村区)に生まれます。秀吉とは異父兄弟であるとされていますが、正確なことは分かっていません。
秀吉の父は足軽の「木下弥右衛門」で母は「仲」(後の大政所)です。秀長の父「竹阿弥」(ちくあみ)は仲が再婚した相手とされています。しかし木下弥右衛門も竹阿弥も謎が多いために、秀長の出自については不明な点が多いのです。そのために、秀吉と秀長の関係についてはいくつかの説が混在しています。
織田信長が存命中は、織田政権下で豊臣家の地位を高めるために秀吉を支えました。さらに秀吉が天下統一を果たした後は、豊臣政権内では秀吉のサポート役として天下統一に貢献しました。秀吉との関係は良好で、秀吉も秀長を信頼して仕事を任せました。
名前の変遷
幼少期は、「木下小一郎」(実名は長秀)だったようです。1572年(天正元年)頃から「羽柴小一郎」となります。羽柴は兄秀吉由来の苗字です。羽柴という名前は秀吉が織田家に仕えていた頃に付けられたものといわれています。
1584年(天正十二年)には、「羽柴長秀」を「羽柴秀長」に改名しています。
1586年(天正十四年)には、秀吉は天皇から豊臣姓を賜ります。これにより秀吉一門の一部の者も姓は「豊臣」となり、秀長も豊臣秀長と名乗るようになります。(昔は氏姓と苗字は別物だったので、羽柴という名を捨てた訳ではありません)
このように年代によって名前の変遷はありますが、「豊臣秀長」と統一して紹介していきます。
どんな生涯を送ったのか?
秀長はどんな人生を送ったのかでしょうか?
秀長を中心とした家系図も参考にしながら生涯を見てみましょう。

農民から武士への転身
1540年(天文九年)
秀長が尾張国愛知郡中村で誕生する。兄・秀吉は秀長が幼い頃に家を出ました。
1561年(永禄四年)頃
秀吉が実家に帰って来ます。織田家に仕えて出世しつつあった秀吉から、秀長にも武士になってともに織田家で自身をサポートしてくれるように頼みます。このことがきっかけで農民から武士へと転身しました。
秀吉は武士出身ではなかったので、まわりに自分を支えてくれる一族がいませんでした。そこで弟の秀長に声を掛けることになります。こうして武士として秀吉のもとで、秀吉の右腕として支えていくことになります。
秀吉とともに信長のために活躍する
1566年(永禄九年)
信長の齋藤氏の美濃攻め(現在の岐阜県)のさい、秀吉が長良川に墨俣城(すのまたじょう)を築くことに貢献しました。
秀吉は短期間にして城を築きました。これを墨俣一夜城と呼ばれています。ただし実在したのかどうかは確定していません。
1570年(元亀元年)
金ヶ崎の戦い(現在の福井県)で、信長は越前国の朝倉氏を攻めていました。この戦いで信長と同盟関係にあった浅井長政の裏切りにより、信長は都まで撤退せざるを得なくなります。そのとき「しんがり」を務めた秀吉に従い、秀長は金ヶ崎城に立て籠もりながら追撃を必死でしのぎます(金ヶ崎の退き口)。このようにして、秀吉が信長からの信頼を得ることに貢献しました。
しんがり(殿)とは … 戦隊が撤退するさい、最後尾を担当する部隊のことです。殿軍(でんぐん)ともいいます。敵を追撃を阻止しながら本隊を守るという危険な任務です。このような役目は信頼ができて優れた武将・部隊が務めることが多かったのです。
1573年(天正元年)
秀吉は浅井氏を滅ぼして大活躍した後、長浜城を築城します。城主になった秀吉は各地への出陣のため忙しかったので、不在がちだった秀吉のかわりに、秀長は城代として築城や北近江地方の統治の実務を担います。こうして秀吉を支えることによって、信長の北近江の拠点づくりに貢献しました。
城代とは … 城主(戦国大名など)が不在のときに、代わりに支配を任された家臣のことです。拠点となる城や周辺の土地の支配・防備を任されました。
1574年(天正四年)
伊勢(現在の三重県)の長島一向一揆を抑えるために出陣しました。
信長は、比叡山の焼き討ちや長島などの一向一揆を平定します。秀吉に代わって秀長は先陣で戦って勝利に貢献します。こうして長年に渡る大阪本願寺との攻防を終わらせました。

中国地方などでの活躍する
1577年(天正五年)
信長の命令を受けて秀吉が中国攻めを行います。このとき秀長は山陰地方・但馬国の平定を指揮することになります。但馬の竹田城を攻め落とし(竹田城の戦い)、その後秀吉から竹田城の城代を任されます。こうして但馬地方の統治を部分的に任されました。
秀吉は中国地方の山陽側、秀長は中国地方の山陰側や但馬国(現在の兵庫県北部)に分かれます。このように秀長は秀吉と連携して効率良く軍事行動を取りました。
1578年(天正六年)
播磨地域で反旗を翻した別所長治に対応するために、但馬を再び攻めるために参戦しました(黒井城の戦い)。
1579年(天正七年)~ 1580年(天正八年)
信長から命令を受けた秀長は、三木城の兵糧攻めに成功しました(三木合戦)。
別所長治が籠城していた三木城に対して、長期間に渡る兵糧攻めによって餓死者が多数出ます。この惨状を見かねた長治らが切腹し、三木合戦が終戦しました。
1581年(天正九年)
吉川経家がいる鳥取城の兵糧攻めに参戦しました(鳥取城の戦い)。
補給が断たれた後、あえて周辺の村々の村民を鳥取城内に逃げ込ませることによって、食糧をどんどん消費させて多数の餓死者を出しました。このような状況から吉川経家は降伏せざるを得なくなりました。秀長は陣城の一つを任されます。最終的に経家らの切腹によって終戦しました。
陣城(じんしろ)とは … 城を攻めるときに、戦略上必要な場所に臨時で築かれた簡易な造りの城です。
1582年(天正十年)
清水宗治がいる備中高松城の水攻めに参戦しました(備中高松城の戦い)。
湿地帯にある備中高松城は、周辺の土地が動きにくい土地だったために、攻めあぐねていました。ここで黒田官兵衛が水攻めを発案します。これは城周辺に堤防を築いて、わざと近くの川の流れを変えさせて、城やその周辺を水没させるという方法でした。

信長から秀吉の時代へ
1582年(天正十年)
当時秀長は秀吉とともに毛利氏の備中高松城(現在の岡山県)を攻略していた最中、明智光秀が襲撃したことによる本能寺の変で信長が亡くなります。本能寺についての衝撃的な知らせを聞くと、秀吉は毛利氏と和睦して京都に戻って来ました(中国大返し)。
中国大返し(ちゅうごくおおがえし)とは … 秀吉が備中高松城から京都の山崎までの約200kmの道のりを、わずか約10日間で移動したことです。万単位の甲冑をつけた軍がそのような移動をすることは驚異的なスピードだったといえます。
1582年(天正十年)
戻って来た秀吉は、明智光秀と山崎の戦い(現在の京都府)に至ります。秀長はこの戦いでも秀吉の勝利に貢献しました。
山崎は淀川と天王山に挟まれた土地です。この戦いで、秀長は天王山側で守備について光秀軍と戦います。当初は秀吉軍は苦戦していましたが、数時間後に光秀の本隊が総崩れになり終結します。こうして明智光秀の天下はあっという間に終わりました。
1583年(天正十一年)
信長亡き後の地位を巡って、秀吉と柴田勝家が対立します。これにより北近江の賤ヶ岳の戦いに発展します。この戦いで秀長は田上山の本陣を守りました。
賤ヶ岳の戦いのきっかけとなったのは、織田家の後継者について話し合う「清須会議」です。これまで織田家の家老では柴田勝家が大きな影響力を持っていましたが、山崎の戦いにおける功績によって秀吉が勝家に代わり主導的な立場へと躍り出ます。このことで勝家は秀吉に対して敵対心を募らせて、次第に対立していくことになります。
1583年(天正十一年)
賤ヶ岳の戦いの功績により、秀長は秀吉から但馬・播磨の2か国を与えられます。これにより竹田城と有子山城を居城としました。
戦略上重要な場所であったこの地を任されたことは、秀長が信頼されていたことを証明しています。
竹田城とは … 山頂に築かれた城(山城)で、霧が発生すると雲海の中に幻想的に浮かび上がることから、「天空の城」「日本のマチュピチュ」と呼ばれています。1600年(慶長五年)に廃城されました。
1584年(天正十二年)
織田信雄・徳川家康と豊臣秀吉との間に小牧・長久手の戦いが起こります。秀長は秀吉の名代として家康と連合を組んでいる織田信雄がいる伊勢へ進軍して交渉を行います。
この戦いでは、秀吉の甥である豊臣秀次が大敗し家臣も失います。そのことで秀吉の怒りを買いますが、その後秀長が秀次を副将として従軍させて、秀吉からの信頼が戻るように尽力しました。
名代とは … 「みょうだい」といいます。誰かの代理を務めることです。
1585年(天正十三年)
紀州征伐を行い、太田城を水攻めをしました。
秀長が副将として出陣します。苦戦したために途中から作戦を水攻めに変更しました。
1585年(天正十三年)
秀吉に代わって総大将として秀長が四国攻めを行い、長宗我部元親を降伏させました。
もともと四国統一を目指していた元親は、信長と亀裂が深まっていきます。四国平定に乗り出そうと考える信長が動こうとしていたときに本能寺の変が起き、立ち消えになります。敵がいなくなった元親は1585年に四国をほぼ統一します。しかし信長の後継者となった秀吉とも賤ヶ岳の戦いや小牧・長久手の戦いなどで対立が続きます。四国平定を考えていた秀吉ですが、病気になったために秀長を総大将にします。軍を複数に分けて四国攻める(三方攻め)ことになりますが、秀長は阿波国(現在の徳島県)を攻めることになります。圧倒的な豊臣軍の前に最終的に降伏し、豊臣家に服従していくことになります。
1585年(天正十三年)
紀州征伐や四国平定の功績により、紀伊国・河内国・大和国を与えられ、100万石を擁する大名となります。それによって郡山城に入城しました。
1587年(天正十五年)
九州平定で、秀長は総大将として出陣します。この戦いで島津氏を降伏させました。
九州で勢力を伸ばしていた島津義久を討伐するために、1586年に九州平定が始まります。しかし幾度の戦いによって豊臣軍は苦戦を強いられます。1587年春になって豊臣軍は数十万もの大軍を送り込みます。薩摩国(現在の鹿児島県)での戦いでは、圧倒的な兵力の前に島津軍を抑え込まれます。これにより最終的に島津義久は降伏しました。

晩年
1587年(天正十五年)頃
九州平定前後から次第に体調を悪くなっていきます。
1591年(天正十九年)
大和郡山城(現在の奈良県)で病死しました。52歳でした。
秀長を失ったことは、豊臣政権にとって大きな損失でした。
1591年(天正十九年)以降
家督は秀保が継ぎます。
秀長には当時男子がいなかったので、継げる者がいませんでした。そのために養子となっていた秀保が継ぎました。秀保は自身の姉の子でした。しかしその秀保も1595年(文禄四年)に17歳の若さで死去したことによって大和羽柴家は断絶しました。
断絶とは … 後継者がいなくなったり、不祥事を起こしたりして家計が途絶えてしまうこと。
政権内でどのような存在だったのか?
秀長は軍事や政務の面で実力があったにもかかわらず、温厚で謙遜な人だったといわれています。さらに絶妙なバランス感覚もありました。それで思ったことにどんどん突き進んで行く兄秀吉とは対照的で、秀吉のブレーキ役や調整役として、豊臣家にとって欠かすことのできない貴重な存在でした。
秀長が亡くなった後の秀吉は天下人として、暴走を止められる人物がいなくなります。そのことが豊臣政権の没落を早めたという見方もあります。歴史に「もしも」考えてもきりが無いのですが、もし秀長が長く生きていたら、豊臣家の運命が変わっていたかもしれません。
ではそのような秀長が政権でどのような存在だったのか、また亡くなった後政権はどうなったのか見てみましょう。
調整役として貴重な存在
武士出身では秀吉は、有能な家臣を持っていなかったために、さまざまな所から集める必要がありました。こうして豊臣政権が出来上がっていきます。後にこれらの家臣団は派閥に分かれていきます。政権内部には大きな派閥として「武断派」と「文治派」がありました。

武断派とは戦を得意とする集団で、文治派は行政などの政務を得意とする集団でした。価値観が異なる派閥をまとめるのは簡単ではありません。この点で秀長がどちらにも味方することなく間に入ってうまく取り持っていたと考えられます。
しかし、秀長亡き後の政権内部では亀裂が深まっていきます。特に朝鮮出兵では、朝鮮半島で前線で戦い続けていた武断派と国内で戦況を見守り秀吉に報告をしていた文治派の間には、物理的にも心理的にも大きな隔たりができました。
さらに秀吉が亡くなり、仲裁役だった前田利家も亡くなると、対立は修復不可能なものとなっていきます。これらの派閥に淀殿と北政所の対立も絡んできます。
後にこれらの対立を徳川家康は巧みに利用して、関ヶ原の戦いへと発展していきます。
秀長亡き後の豊臣政権はどうなったのか?
秀長が亡き後の豊臣政権は迷走していきます。不運も重なりますが、結果的に秀吉の決断は政権自体を追い詰めていくことになります。さらに秀吉が亡くなった後の政権内では、ごたごたが続き弱体化していきます。もし秀長が存命していたら、どうなっていたのでしょうか?
1591年(天正十九年)
秀長が亡くなった直後、秀吉の側近として相談相手だった千利休が秀吉の命令によって切腹させられました。原因ははっきりとしませんが、秀長とともに秀吉は有能な人物を自ら失うことになります。
1591年(天正十九年)
秀吉の後継者と期待されていた鶴松が、病気のために3歳で亡くなります。これにより秀吉の甥の秀次が後継者候補となりました。
1592年(天正二十年)
文禄の役(1回目の朝鮮出兵)が行われる。最初は順調に攻略が進んだが、李舜臣の水軍に敗れたり、明軍の攻勢があったりして、次第に劣勢に立たされます。
1593年(文禄ニ年)
淀殿が秀頼を出産する。これにより秀次の立場が悪くなります。
1595年(文禄四年)
秀次に謀反の疑いが持ち上がります。その騒動で秀次は切腹にさせられます。さらに秀次の関係者も一斉に処刑されました。
1597年(慶長二年)
慶長の役(2回目の朝鮮出兵)が再び行われる。最初は攻略できたが、次第に明と朝鮮軍の攻勢により劣勢に立たされました。
1598年(慶長三年)
秀吉が亡くなりました。
1600年(慶長五年)
関ヶ原の戦いが起こました。


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