【歴史】室町幕府の管領とは? 執権との違い

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幕府の中での管領という役職

鎌倉幕府の後、室町幕府が成立します。今回は鎌倉幕府との違いに注目しながら「管領」という役職がどういうものなのか考えましょう。ちなみに管領は「かんれい」と呼びます。

室町幕府は足利尊氏が1338年に京都の室町に開きました。幕府ですから、その組織の頂点はやはり将軍です(鎌倉幕府と同様)。そしてこの将軍職には足利氏が代々つくことになります。初代尊氏から始まって15代義昭が1573年に織田信長によって滅ぼされるまで約240年間続くことになります。そして室町幕府の中に管領が置かれたました。

では管領とは何でしょうか?

まず室町幕府のしくみを見てみましょう

※一部省略されている役職や機関があります。

上の図を見ても分かるように、管領は将軍の補佐役ということが分かります。そして中央の行政を取りまとめていることも分かります。

管領は最初からあったわけではありません。当初「執事」と呼ばれていましたが、途中から管領に改められました。少なくとも幕府開始から数十年後(1360年代)には、その役職は確立されていったようです。

ここで、比較するために鎌倉幕府のしくみも見てみましょう

※一部省略されている役職や機関があります。

鎌倉幕府と比べると、似ている部分もあれば変わっている部分もあります。

その中でも大きな違いは将軍の補佐役です。鎌倉幕府では執権室町幕府では管領となっています。ここでふと疑問が生じます。

管領と執権は同じなのか? 違いはあるのだろうか?

以下の記事で鎌倉幕府の執権についてさらに詳しく解説しています。参考にしてください。

【歴史】鎌倉幕府の執権とは?
鎌倉幕府の中で執権はどんな役割を果たしましたか。執権と北条氏の関係・実朝亡き後の将軍と執権はどんな関係だったかを解説します。

管領と執権の違いは?

鎌倉幕府の執権は大きな影響力を持っていました。あらゆる役職や機関の上にあったので、必然的に権力が集まりやすかったのです。執権の下には中央や地方の役職・機関がぶら下がっています。北条氏はこのしくみをうまく利用して長期間にわたって権勢を奮いました。(下の図を参考にしてください)

※一部省略されている役職や機関があります。

一方で、管領はどんな役職だったでしょうか。図を見ると管領の下にある役職は執権と比べて限られています。また地方職は管領とは別に独立しています。

このことから、管領は執権ほど権限が強くなく、本来の補佐役として立場の意味合いが濃かったと言えます。さらに執権が北条氏が代々独占していたのに比べて管領はあえて畠山氏・斯波氏・細川氏の3氏が交代で担当しました

鎌倉幕府の教訓を生かして同じ役職を世襲制にしませんでした。このことで特定の集団に権力が集中しないようにして、幕府の安定化を図ったのです。

管領は幕府にどんな影響を与えたか?

室町幕府の中で管領はどんな影響を与えていくことになりますか?

管領は執権の北条氏のように権力を独占することはありませんでした。交代制だったからです。しかし、管領3氏(以降、畠山・斯波・細川のことを指す)は地方では守護もつとめていました。室町時代は守護自体の権限が強化されていったので、3氏も有力な守護になっていきました。この守護は守護大名と呼ばれるようになっていきました。

さらに室町時代は管領をつとめた3氏以外にも多くの有力な大名が各地で活躍しました。それぞれの大名が強くなっていったので、結果的に室町幕府は鎌倉幕府よりも弱くなりました。

管領は、執権のように将軍を超えて実権を奮うことはありませんでした。しかし、だからと言って全体的に見て室町幕府が安定することはありませんでした。

後に、足利氏の将軍争いに有力大名に成長していた畠山氏と斯波氏の跡継ぎ争いが絡んで応仁の乱が起こります。この乱によって京都は荒廃し、戦国の世へと進んでいくことになります。この頃は、室町幕府は幕府としての権威はありませんでした。

鎌倉幕府と比べて室町幕府は弱いと言われています。しかし、実力主義の社会だった当時では、そうなるのは定めだったのかもしれません。しかし弱い幕府ながらも数百年続いたというのは事実であり、ある意味粘り強かったとして評価できると思います。

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