幕府の中での執権という役職
鎌倉幕府は、源頼朝によって成立されてから源氏の天下だったものの、幕府の実権は源氏から北条氏へと移っていきました。そして、源氏の跡を継いだ北条氏は「執権政治」というものを行います。
ところで執権とは何でしょうか?
それを理解するために、鎌倉幕府のしくみを図で見て調べてみましょう。鎌倉幕府は一気にしくみが整えられたわけではなくて、1180年以降、順次整備されていきました。この流れの中で1203年に執権が設置されました。

一度に鎌倉幕府がつくられたわけではないので、「幕府の始まり」つまり「鎌倉時代の始まり」がいつであるかという議論があります。守護・地頭が置かれた1185年とする説や、源頼朝が征夷大将軍についた1192年とする説があります。
上の図を見てみると、執権は将軍(征夷大将軍)の補佐であることが分かります。将軍の補佐といっても、あらゆる行政職を統括する役目でした。中央行政・地方行政・司法などの上に位置していたので、必然と権力は集まりやすかったでしょう。この役職が後に幕府の流れを左右していくことになります。
執権にはじめてついたのは北条時政です。三代将軍の源実朝のときでした。これ以降16代にわたって代々北条氏が、執権につきながら実権を握っていくことになります。
源氏が途絶えて以降の将軍と執権の関係
さて、執権が実権に握るようになったということですが、将軍はどうなったのでしょうか?
鎌倉幕府が成立当時、実権を握っていたのが源氏でした。初代将軍源頼朝は幕府内で大きな影響力を持っていたのは言うまでもありません。しかし、北条氏の台頭によって執権の方が大きな影響力を持つようになったのです。
では将軍はどうなってしまったのでしょうか? 源氏の将軍が三代で途絶えて、北条氏が執権政治で表舞台で活躍していた間も将軍はたしかに存在していました。いったいどんな人たちが将軍になっていたのでしょうか?
三代源実朝の後、藤原頼経・藤原頼嗣・宗尊親王・惟康親王・久明親王・守邦親王といった人物が順番に将軍職に就任しました。失礼ですが、、、あまり聞きなれない人物ばかりです。これらはどんな人たちなのでしょうか?
例えば、藤原頼経は京都の貴族で、貴族の中でも位の高い家柄の出身でした。彼は幕府からの要請によって三代実朝の次の将軍として鎌倉に迎えられました。さらに後に宗尊親王が迎えられます。彼は後嵯峨天皇の皇子という高い立場でした。幕府としては天皇の子どもを将軍につけたことによって、自らの背後に天皇家とのつながりがあることをまわりにアピールできました。このようにして、この朝廷の権威を利用して北条氏の地位を高めるのに役立ちました。鎌倉時代になって、政治の主役は武士に変わってきましたが依然として朝廷は権威を持っていたからです。
将軍になった後、幕府の都合に振り回された人生を送った者も少なくなかったようです。中には、幕府に迎えられたのに、都合が悪くなったので都に送り返された者もいました。けっこう不遇な人生を送った者もいました。このような状況の中で、これらの将軍職についた人たちは、北条氏の執権政治の中で、形式的な形とはいえ幕府の職を果たしていくことになります。
将軍を送り出してきた京都と幕府の関係
鎌倉(現在の神奈川県)は、地理的には京都と距離がありました。現在でもさまざま交通機関を使って数時間かかります。決して近い距離ではありません。もちろん鎌倉時代は現在よりもはるかに遠く感じられる距離でした。しかしこの距離が幕府にとって重要でした。この距離のおかげで京都の朝廷からの影響を受けにくかったのです。

上の地図を見てください。直線距離でも約350キロほどです。徒歩で移動すれば約10日以上かかったでしょう。鎌倉幕府としては、都との微妙な距離があったからこそ自分たちが思うよう武家政治を展開できる一方で、朝廷の権威もうまく利用して幕府を強化したかったのでしょう。
この絶妙な関係を可能にしたのが、鎌倉と京都の距離だったのです。
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